夜中。
トイレに行こうとテントを出てオレは涸沢ヒュッテへと向かった。
ヘッドライトを点け、石が歩きやすいよう平に敷かれた通路を歩く。起きてる登山者もいるようで、いくつかのテント内にはライトが灯り、光輝いていた。
日中、賑わっていたヒュッテやテラスは電灯が消え、静寂に包まれ人の姿は見えない。
トイレには仄暗いオレンジ色の明かりが点いていて、出入りに危険がないようにはなっている。大の方は男女共用で10個程度、個室が並んでいた。オレは空いている一つに入る。
山小屋のトイレはその多くが水洗ではない。北アルプスの高所となればなおさらだ。よって、いわゆるくみ取り式、ぼっとん便所である。寝ぼけてケータイなんぞ落としたら目が覚めるだけでは済まない。
幸い、ここは和式ではなく洋式なので比較的楽に用を足すことはできそうだ。また、匂いもなく、マナーが良いのか汚れも少ない。ドアを含め、四隅の壁は木目が綺麗な板で、お洒落な雰囲気さえ感じられた。
そんな個室の便器に座ってオレはぼんやりとしながら一日を振り返っていた。
その時、ひとりの登山者がトイレにやってきて、オレのすぐ隣の個室に入る。
こんなに空いているのによりによって隣か。
落ち着かんな。
などと考えていたその直後、不快な低音がそこから響き渡った。
ブベリッ! ブブッー!
「?!」
ゲリだ。
しかもひどいゲリだ。
一体どうしたんだこの人は。何か食べたものでもが当たったのか。
ブベリッ! ブベラブッ!
まるで北斗百裂拳をくらった後の敵だ。実に醜い音ではないか。お前はもう死んでいるじゃないか。
ブビシッ!
その轟音が響いたのちにその音の主はゆっくりと独り言を漏らした。
「あ〜、ゲリが・・・、ゲリラ豪雨だ・・・・。」
嘘だろ。こんな時になんてダジャレを言っているのだこの人は。あやうく目ん玉が飛び出そうになるじゃないか。
おじさんと思われるそのゲリの主の声に、オレは木の板一枚を挟んだ隣りの個室で、一連の衝撃を受けて半ば金縛りに合い、身動き一つ取れなくなってしまった。
おそらくおじさんはトイレには他に誰もいないと思い、そのような豪快な放出音を出したに違いないし、つまらんギャグを口にしたのだろう。いや、きっと誰かがいたとしてもそのような音は出てしまうほどお腹の具合が限界だったに違いない。
いずれにせよ、そのような音を他の誰か、つまりオレに聞かれていたことが分かれば、このおじさんは羞恥心のあまり二度と公共のトイレの個室に入れなくなるトラウマを抱えてしまうかもしれない。
そう、ここは登山の名所、美しい北アルプス、上高地を眼下に望む絶景地、登山好きであれば誰もが一度は訪れたい涸沢カールなのだ。ケツからそのようにブッ放す音が似合うわけが無いし、オレもできれば聞きたくなかった。
とにかくオレはおじさんの今後の人生を考え、物音ひとつたてず、誰もいないことにしてあげ、おじさんが出ていくまでやり過ごそうと決意した。
そんなオレの心配も余所に彼は先ほどのブベリ音から音をターンオーバーしてきた。
プシュッ! プシュッ!
プシュー・・・、 ウ・・・
音を、誤魔化している。
まさか、サイレンサーか? サイレンサーさえ持っているのか?
このおじさんは。
さっきの爆音を消すためにそのようなことを?
は?
まさか・・・。
オレが隣にいると気付かれたのか?
隣に人の気配を感じ、その恥ずかしさのあまり「サイレンサー付きの下痢」にしたのか?
いや、気付かれてはいないはずだ。オレは物音一つ立ててはいない。まさに今、トイレに座りながらも石と化し、今もこの状況を必死にじっと耐えているのだ。
おじさんよ、早く立ち去ってくれ。そうでないとオレもここから出られない。なぜならそれがあんたのためだからだ。
オレはおそらく、おじさんと同じ姿勢、下半身を露出した同じ格好で便器に座りながら、祈るように手を握り、そこに額を押し付け、目を閉じ、息を殺し続けていた。しかし、ドクッ、ドクッと激しく打ち始めてしまった胸の鼓動が体の外にも聞こえてしまいそうな気がして不安でならない。
オレは脈打つ心臓を落ち着かせるために、一度、ゆっくりと息を吐いた。その数秒が実に長く感じられたその時だった。
「誰か・・・、いますか?」
おじさんの、唸るような声が聞こえ、オレはハッとして目を見開いた。
しまった、バレたか? オレが隣にいるとバレたのか?
いや、
そんなはずがない。
オレは自分にも聞こえないくらいの音で吐息を溢したまでだ。
夏とはいえ、2500mの高地では夜は冷える。その空気の中、オレの額には冷や汗が滲み始めていた。
オレは祈った。そう、ここには誰もいない。安心しろ。あんた以外誰もいやしないのだ。そう、この地球上にはあんた以外だれも存在しやしない。お前が新人類なんだ。誰もあんたのスーパーゲリ音など聞いちゃいない。お前が全てのはじまりだ。
しかし、だ。なぜそんなことを聞いた?
その問いに、肯定し難いある疑念がよぎる。
おじさんは、ゲリ音を聞いたやつがいないかカマをかけているのかもしれない。そして万が一耳にしたやつがいたのであれば、生かしてはおけないと考えているかもしれない。あれほどの音だ、他人に聞かれなどしてこの美しい登山道を歩けるわけがない。
しかしオレはアンタの顔を見たわけではない。このままアンタさえ去ってくれれば、何事もなかったかのようにオレは振る舞うことを約束する。だから早く、早く去ってくれ頼む。オレは、唾をごくりと飲み込み、おじさんの問いには反応を示さないことにした。
しかし次の瞬間、ヤツは別の手でオレを炙り出そうとしてきた。
「誰か、いますか? 紙がありません。誰か、紙を」
再び唸るような声が薄暗いオレンジ灯の下、耳奥を突いてきた。
なんだと?
紙がないだと?
あれほどのスーパーゲリの後で、しかも標高2310mのお山でお尻を拭けないことはハレンチの極みである。
しかも、このような遅い時間だ。トイレに来る登山者もそう多くはない。助けは求めなければ得られない。
そうか、そういうことか。そうだ、簡単なことだ。オレは妙に納得し、胸を撫で下ろした。返事をしてこっちにあるトイレットペーパーのロールを放り投げてあげればいいだけだ。それで全て解決だ。
と結論付いたと思った矢先、ハッとして次なる疑心暗鬼に襲われた。
いや、待て・・・。
これは罠かもしれん。オレをおびき寄せる罠かもしれん。トイレ内で紙がないと訴える者がいれば、たいていの人間であれば親切心から手助けするだろう。その裏をかいてヤツは名乗り出た人間をゲリ音を聞いたと見なし、一人残らず始末しようとしているのかもしれん。いわば踏み絵だ。
しかしオレとて生きて下山しなければならない。こんなとこでやられるわけにはいかないのだ。故郷(くに)に帰らねばならないのだ!
ここでオレに与えられた選択肢は二つ。
一つは、一気にズボンを上げ、ヤツより一瞬早くトイレから脱出し、逃げ切る。存在が知られてしまうが、逃げ切れればこっちの勝ちだ。もう一つはこのまま息を殺し続け、ヤツが先にトイレから出ていくのを待つ。
時間の猶予はない。どちらを選択するか。よし、ここは先手必勝、逃げ切ろう、そう決心し、立ち上がろうとしたその瞬間だった。
「神よっ!」
その声のあまりの覇気にオレの体は再び凍りついたように固まり、動けなくなってしまった。
・・・神、だと?
まさかヤツには信仰心があるのか。あるいはそれほどまでに切羽詰まっているのか? どちらにしても、姿が見えない相手に異様さは否めない。
「おお、神よ・・・」
今度は零すような力ないかすれ声である。
待てよ、ヤツはもしかするとキリスト教なのかもしれない。だとすれば神に助けを乞うことはむしろ信仰深い証拠であるし、なにより悪人ではないはずだ。そんな人間をオレは放置し、見捨てるのか?
いや!できはしない。
もし神がいるのであれば彼を救うだろう。命乞いをする人間を放っておくことなど、オレにできるはずがない。
病や困っている人がいれば助けるのがオレのはずだ。そうだ、おじさんは腹痛で動けず、重体なのかもしれん、その可能性もある。
だとすれば、すぐに山岳救助隊に連絡せねば。
幸い、ここ涸沢カールには診療所も救助隊の小屋もある。例えこれが罠だとしても、オレは自分に正直に生きるのだ。
「どう・・・、しましたか?」
オレは勇気を振り絞り、覚悟を決め、ついに静寂を破って声を発した。
それにより、板一枚を挟んだオレとおじさんの心理戦は終止符を打つことになる。
これで存在が知れてしまった。あのゲリ音の一部始終を聞いていた人物がここにいたのだと証明してしまったのだ。後はおじさんの次の一手で全てが決まるのだ。
「あの、すみません、そちらに紙の余りはありますか?」
それが初めての、言葉を介したコミュニケーションとなった。
オレは目の前にある予備のトイレットペーパーに目をやる。
「ありますよ。」
「ありがとうございます。すみませんが、投げていただけますか?」
オレはそれを掴み、
「投げますね。」
と言って壁の向こうへ放った。
そのトイレットペーパーは、オレの頭上で残像を描いて壁の向こう側へと消えていった。
「ありがとうございます。助かりました、本当に。」
おじさんの安堵する声が聞こえる。
オレはその時、神になったような気がした。全能の神、ゼウスに。できればスーパーゼウスがいい。
しかしそんな気分に浸っている暇はない。オレはすぐにズボンを上げ、個室を脱出する。オレはまだヤツを完全に信じ切った訳ではない。
ヤツが本性を表し、オレを道連れにしようと自爆装置を作動させればトイレごとこっぱみじんだ。それが万が一爆発すれば、オレは山小屋のテラスからダイブするつもりで走った。
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