パリ組曲㉓ モン・サン・ミッシェル観光
モン・サン・ミッシェルを望む橋の階段に腰を掛けて、村のパン屋で買ってきたパンを頬張る。
大きなフランスパンに、ハムとレタス、それにマスタードが挟まれている。
「谷川さん、そのパン、すごいですネ。」
「ワタシの口は、大きいデスカラ。」
そう言ってミヒャンは三日月のように綺麗な弧を口元に描く。
西暦708年から建設が始まり、完成後は修道院としての巡礼地、14〜16世紀の英仏百年戦争では要塞、牢獄の役割を経て、再び修道院の機能を回復し、1979年に世界遺産に登録された。
橋の上での、ピクニックに来たかのような長閑な昼食後、二人は歩いてモン・サン・ミッシェルへ向かうことにする。10分置き程度にシャトルバスが発着しているが、時間はたっぷりあるし、だんだんと近づくその迫力を感じたかった。
2015年に完成したばかりの連絡橋。それ以前は海を埋め立てた道があり、潮の満ち引きがうまく機能せず環境面で問題視されていた。
周囲は海に囲まれ、他に何も建造物がないため距離感がつかめない。本当に近づいているのかどうか、分からなくなる錯覚に陥る。
正月のこの時期は閑散期で、人通りも少ない。季節によっては観光客でごった返すらしい。
「北の塔」。ここから城壁をぐるっと歩けるようだ。
海抜80メートル。渡ってきた橋が一望できる素晴らしい眺めだ。
テラスには修道院付属の教会がある。11世紀に建てられた後、何度か崩壊し、修復が繰り返されてきた。
教会の長椅子で一休みをしていると後からやっていたフランス人ツアー客らに囲まれ、いつの間にかアジア人である二人もそのツアー客であるかのようにフランス語でガイドを聞くのだった。
「修道僧の納骨堂」。モン・サン・ミッシェルが牢獄として使用されていた19世紀に貨物昇降機が設置され、囚人が人力で車輪を回し、荷物を搬入していたという。
「ピエタ像と死体安置所」。1830年まで死体安置所として使用された部屋で、死を嘆くピエタ像が置かれている。
「騎士の間」。修道僧たちが写本や彩色を行ったという仕事部屋。大きな暖炉がある。
グランド・リュへ戻り、カフェで一休み。2階建てではあるが、閑散期のためか店内はガラガラ。展望の良い二階のテラスへ案内してくれ、谷川はコーヒーを、ミヒャンはビールを注文した。
「アヴァンセ門」を再びくぐり、修道院を背に来た道を戻る。すでに日が暮れようとしていた。連絡橋を渡っているうちに夕暮れになり、振り返ると修道院には明かりが灯り始めて夜の幻想的な雰囲気を連想させた。
すると店内には同じツアー客の日本人が数グループ座っている。どうやら朝、バス内で注文したディナーを提供するレストランらしい。
「え、でも、お腹大丈夫ですか? 何か食べたほうが・・・」
「これを食べるから大丈夫。予約しておいたのに残すのはもったいないから食べておくれ」
「じゃあ、、、いただこうか。」
お金はいいから、という老夫婦のご好意をありがたくいただくことにした。
しばらくして、コース料理の前菜が谷川とミヒャンに運ばれてくることになった。
「どうしても来たくてね、もう体力的に無理かと諦めていたんだけど、やっぱり諦めきれなくてね。日本からのツアーに申し込んだのよ。」
その夫婦の雰囲気からして奥さんのほうが切望していた様子がうかがえる。
「そういうことデスカ。シンコン旅行ではありません。実はですね」
「あら、いいわね。じゃあ、新婚旅行は別の国ね。ドイツなんかもとても素敵な国よ。行ったことはある? ドイツへは2年前に行ったの」
よほど話したいのだろう、奥さんがまくしたてるようにしゃべるので、ミヒャンは全部を聞き取ることができない。それでも分からないところを聞き直したり、知らない単語を質問したりしてコミュニケーションをしようとした。
「タニガワさん」
「ドイツへは行ったことがアリマスカ?」
彼は一瞬なんのことを尋ねられたのか分からないほど記憶の映像に捕らわれていたが、「いや、ないよ。」
6時半ともなると、もう外は暗く、レストランからも薄っすらとモン・サン・ミッシェルの夜景を見ることができた。
おかやんの「とりあえず何でもひとりでやってみる」ブログ。
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