パリ組曲㉔ 「今夜も抱きしめて寝てくれますか?」


パリまで約3時間半。


到着予定時刻は23時。時間はたっぷりある。 


「では、みなさま、到着までしばらくお休みください。また、サービスエリアが近くなりましたらアナウンスにてお知らせいたします。」  


添乗員さんの案内があった。  


電気を消されたバス車内では、ところどころで客たちの話し声が聞こえはしたが静かなものだった。モン・サン・ミッシェルを離れると夜景というようなものは何もみえない。農村地帯の家の明かりが時折目に入る程度だった。


フランスには、パリと田舎がある、と言われる意味が分かった。  


ミヒャンは暗い車内で、今日ケータイで撮った写真を一枚一枚丁寧に眺めていた。


 「タニガワさんを撮りました。」  


見ると、彼が気づかぬうちに撮ったのだろう、横や後ろ姿が写っている写真ばかりだった。


 「正面から撮ってくれればいいのに。」 


「でも、恥ずかしいデスカラ。」


 「これじゃあ、誰だか分からないよ。たまたま写った人みたいだ。」

 「ワタシは分かります。いいんです。」  


そう言ってミヒャンは満足気に写真を眺めていた。 


「じゃあ、あとでちゃんと撮ろうよ、二人で写真を。」 


「いいんですか?」  どうしてそんなことを聞くのか、谷川はなんとなく察することができた。 


「当たり前だよ。」 


「アリガトウゴザイマス。それはトテモ、思い出になります。」 


 ミヒャンには生きてきた人生に人並み以上の引け目があって、それはきっと韓国にいる家族のことなのだろうけれど、積み重なってきた寂しさや憤りが、自分は両親に大切にされなかった、自分は家族にとって取るに足らないものなのだと彼女に思わせてきたのだと、そう、彼女が発してきた言葉たちの中に伺えた。 


「それはとても、思い出、か」  


ミヒャンの黒い瞳にケータイの画面の光が映り込み、濡れているように見えた。


出会った時と同じように、そのまま溶けてしまいそうな潤いに満ちていた。  

思い出になるのか。  


その言葉の音には寂しさが含まれていて、胸の奥をそっと触られるような感触があった。  


二人は明日の帰国が迫っている。本当はその話を先にすべきだった。けれども、谷川もミヒャンもそれを避けるように、お互いの過去の話、特に学生生活の時のことを暗いバスの車内で語り合った。   


「ワタシは高校生の頃、吹奏楽部に入っていました。毎日練習していました。」 


「へえ、そうなんだ。何の楽器?」 


「トロンボーンです。」


 「あの大きいやつ? そんな小さな体で、すごいね。」 


「体の大きさは、ダイジョウブです。吐く息が大事です。有名な高校だったので、いろいろな大会に出ました。とても厳しくて、学校のセイセキはだめになりました。」  


暗い車内、景色は真っ暗。心地よいバスの揺れ。程よい疲れ。そして時間はたっぷりある。なんてことない話をするには丁度よい条件のような気がした。 


「高校三年生の時に、日本文化を紹介するテレビで観ました。同じ年の女の子が大きな筆で字を書いていました。それから書道をやってみたくなりました。大学に入った時、日本語を勉強して、日本に留学することになりました。」  


二人は、どちらかがずっと聞くわけでもなくどちらかがずっと話すわけでもなく、なんとなくちゃんと会話になっていて、気がつくとどちらかがウトウトしたり、起きたり、話しかけたり、そうやってパリへ着くまでの車内を過ごした。  


ツアー会社には予定通り23時に到着、解散。大型バスにほぼ満席だった参加者たちは各々ホテルへと帰路に着く。  


レストランで食事を頂いた老夫婦はタクシーで帰るとのことで、道路を渡ったタクシー乗り場まで一緒に行き見送った。  


金曜の夜の街は人々で賑わっていて、前や後ろを歩く人物、特にスリにさえ気をつけさえすれば歩いても大丈夫そうだ。二人は1駅分、それでも5分くらいだが歩いて、オペラ座ガルニエまで行く事にした。


大通りの面した店は大抵が服屋や化粧品店などですでに閉まっていたが所々カフェは開いていて、人々がビールを口に運んでいる姿が見える。


 「ワタシは明日のお昼に、日本へカエリマス。」


唐突にミヒャンが言った。出さなきゃいけない話であるし、出したくない話であった。谷川は、胸に大きな波のような鼓動を感じ始めた。何か返事をしなければと考えるが適したものが浮かばない。 


「そうだね。」  やっと出した言葉がそれだった。 


「もう終わってしまいます。」 


「荷物の準備、しないとだね。」 


「タニガワさんは、夕方に帰ります。」


 「そうだね。」  



夜のオペラ座ガルニエは怪しくも美しく、エッフェル塔と同じくパリの象徴の一つとしてそこに在り、その外観の存在感のみで見る者を圧倒させた。


 「ワタシ、パリに来て良かったです。」  


美しいものに惹かれたり表現しようとしたりするのは人間の本能なのだろう。芸術の国へ来て、美しいものを美しいと言える文化が素晴らしいと彼は思った。


「ワタシの目的は、両親ことや自分のことを、考えることでした。本当にいろいろ考えました。分かったこともたくさんありました。いつか、韓国に帰って家族にまた会いたいと思いました。今までは、そのような事は考えませんでしたから。」  


ミヒャンの心もまた美しかった。ルノアールの描いたムーランドゥギャレットように色彩に富み、鮮やかであった。感情に乏しい谷川は、まるで自分が白と黒でしかできていないようにさえ感じた。  


パリでの一週間、ずっとずっと、夢の中にいるようだった。  


まだ続いてほしいと願った。願わないといけないことが悲しくもあった。   

日本で日常生活を送るだけの一週間など、日常生活で起こるべきして起こる当たり前かのような出来事をこなしていくだけの日々で、きっと谷川にはそれは退屈過ぎた。だから谷川には色が欲しかった。日常を彩る色を欲していた。  


オペラ座の光に照らされたミヒャンが、手で触れようとすればすり抜けてしまうのではないかと思うほど非現実的な肌の白さの中に、黒々とした瞳を携えて谷川を見ている。 



「今夜も、抱きしめて寝てくれますか?」  

彼女は恥ずかしいことをにこりと笑って言ってくる。 



 日本では、ルールやマナーや文化や世間体や他人の目なんてものがウイルスかのように知識に入り込み、何か行動を起こす度に必ず邪魔をしてきた。けれどもここではそんなことを気にする必要はなかった。  



オペラ座の前で彼がミヒャンを抱きしめても何も気にならないし、誰にも気にされない。日本ではできないことが多すぎた。ここではできることがたくさんあった。素直に抱きしめることを躊躇しなくて良かった。だから彼はオペラ座の前の人の流れの中でミヒャンを抱き寄せた。自分の気持ちを表現し、さらけ出せることに喜びを感じていた。 


おかやんの「とりあえず何でもひとりでやってみる」ブログ。

やりたい事は悩みながらなんでもやってみる。結果的に楽しんでる!また、何かに特化して書いているわけではありません。 書きたいことをごった混ぜにしてネタをブチ混んで書いていますhttps://www.instagram.com/the_unending_world/?hl=ja

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