パリ組曲㉑ モン・サン・ミッシェルへ。



「今日は、モン・サン・ミッシェルへ行きます。」

早朝6時前、ミヒャンの独り言で彼は目を開けた。 


朝の9時頃になってようやく明るくなるこの時期のパリではこの時間ではまだまだ深夜のように暗く、静けさに包まれている。

起き上がるのがつらいほどの眠さだったが、7時10分出発のツアーに遅れるわけにもいかない。 


「起きましたか?」
 


ミヒャンがTシャツスウェット姿でベッドの上の谷川に微笑みを送った。
 

独り言だと思ったミヒャンの言葉は、自分に向けられていたのだと彼は薄目を開けて気づく。 


「君はもう起きてたんだね。」 


「遅れてはダメだ、日本人は10分前には必ず集まるのが文化だ、と谷川さんが言いました。」 


 そういえばそんなことを言ったような気がする、とぼんやりと考え後悔した。


女性という生き物は、男が何気なく言ったことをものすごく覚えていて、後でそれをちゃんと跳ね返してくる。


谷川は自分で言ったことを覚えておきながら、時間にしばられてしまうツアーってのはやはり嫌だな、などと勝手なことを頭に浮かべていた。


 ツアー会社の案内によると15分前には集合してほしいとのこと。ホテルから地下鉄を乗り継いで行き、20分もあれば到着できる。


まだ大丈夫だろうと思った谷川はミヒャンの体を抱きしめて再びベッドに倒れこんだ。ミヒャンの小柄だが豊かな胸に悪戯に顔を押し付ける。その感触の柔らかさに満たされる気持ちが、彼が男であるという証明と自身の存在を確かめさせてくれた。


 「ダメですタニガワさん。ワタシタチ、遅刻したらモンサンミッシェルに行けません。」 


モンサンミッシェルか。その響きを耳にして彼の脳裏には、ずっと行きたいと思っていたその場所の光景が訪れた。 


「さあ、起きましょう。」 


日本語の敬語とは、なんて心地よい響きなのだろう。起きて、とか、起きろ、なんて不躾な言い方には決して持ち合わせていない響き。そして日本人ではないミヒャンが言うからこそ何かその異国のイントネーションに美しさを感じるのだ。優しさそのもののようなそれに、まるで幼き頃に母親に促されているような童心になり、彼はミヒャンに怒られてはいけまいとベッドから出てようやく支度を始めた。
 
 


エレベーターに乗って一階へ行くとフロントには初めて見かける若い女性スタッフが立っていた。外はまだ真っ暗だというのに、ちゃんと笑顔で挨拶をしてくれる。 


「ボンジュール。グッモーニン」
 


わざわざフランス語と英語で言ってくれたのはサービスを受けているという嬉しさがあった。

 


まだ深夜思わせるほど暗いパリの街へ踏み入れる。
 

石畳の地面が濡れていた。そういえば、ずっと雨が降り続いていた。


街灯の光が僅かに溜まる水たまりに反射してそこかしこで光っていた。 夜は満席で賑わっているカフェも、椅子が積み上げられ、朝の開店準備さえまだ始まっていない。 


開け放たれた地下鉄サンラザール駅の入り口を降りていく。日本とは違う、何の表示も液晶もない無機質な改札に切符を通し、回転棒を回して入った。

 


すぐにやって来た路線3に乗り込み、まずは隣りのオペラ駅まで行き、路線7に乗り換える。相変わらず几帳面な谷川は、迷わないように地下鉄の乗り方、方面、乗り換え駅、駅の読み方などをチェックしてきたため、二人は初めて来たとは思えないほどスムーズに歩く。
 


通路を歩いていると、
「あれ、谷川さん。」
 と、ミヒャンが前方を指を差す。


見ると、日本人だと思われる若い女性二人組が通路の真ん中でガイドブックの地図を広げて、なにやら迷っている様子が目に入った。 


まだ早朝の広い駅構内には数人が歩いているのみで、アジア人がオロオロしている様は目立つ。
 


谷川は知らぬ顔で通り過ぎようとしたが、ミヒャンがその二人に声をかけてしまう。 


「アノ、日本の方デスカ? ドウシマシタカ?」
 


どうしてミヒャンは話したがるのだろう。
 

谷川は、海外へ来てまで日本人とはあまり話したくはなかった。

とりわけ日本からツアーでやってきたようなカップルや女子二人組は毛嫌いしていた。大した調べもしないままやって来て、海外旅行だとはしゃいで浮かれたその空気に話を合わせるのが全て自力で来る一人旅を好む彼には苦痛なのだ。


なので彼はミヒャンの背後に隠れるようにして、ただ黙っていようと思った。
 

女性二人組はミヒャンの声掛けに安堵した様子で、 


「ツアー会社に行きたいんですけど、電車が分からなくなって。急がなきゃいけないんです。」
 


パリへ来て、日本人が行くツアー会社なんてだいたい同じだ。もしやと思ってその女性が持っていたバウチャーを谷川が一瞥すると、これから自分たちが行くツアー会社の名前が記載されている。 


「タニガワさん、ここ、わかりますか?」 
 


何度も説明したのに、彼女はこれからどこへ行くのかも分かっていないのだと思うと彼は可笑しくてたまらなくなった。

そういえば空港でミヒャンと会った時も彼女は自分のホテルがどこで名前は何なのかまるで分かっていなかったくらいだ。 


「ミヒャン、これ、オレたちと同じツアー会社だよ。」 


「そうなんですか。では、一緒に行きましょう。」 
 


女性二人組は、「え〜、いいんですか、ぜひお願いします!」、「良かったね、遅れるところだったね!」などと歓喜した。


まさにそういうテンションが好きじゃないのだと、谷川は全く別のとことへ視線を放おってぼんやりと思った。
 


女性二人を背後に引き連れ、路線7に乗り換える。
 

電車内では、その二人組は韓国人であるミヒャンのキャラに食いつき、どうして日本語が話せるのか、とか、どこに住んでいるのか、とか三人で盛り上がっているのを谷川はただ黙って耳にしていた。 


1つ目の駅、ピラミッド駅で降りる。北口を出て、まっすぐ行き、二番目の通りを左へ。30mほどでツアー会社「エミトラベル」がある。エミ、というのは経営者の名前だろうか。


パリでの日本人専門ツアー会社ということで、規模は大きいようだった。それだけパリを訪れる日本人が多いということだろう。
 
 


到着すると、外からでもガラス越しにすでに多くの日本人が集まって来ているのが見えた。時間をきっちり守る日本人はやはりずいぶん早くからしっかり集まる。これが日本の教育が作った文化なのだろう。ここは確かにパリであるのに、渋谷か新宿か、そのあたりの路地の一角なのではないかと思うような光景でもあった。 


 オフィス内に入ると、40代半ばくらいだろうか、日本人女性が受付を行なっていた。美人ではないが笑顔や発声に品があり、接客業が長いことが伺えた。 


「おはようございます。ご予約のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
 


緩やかな話し方には、名前を告げるだけのやりとりであるのにずいぶん谷川は安堵した。パリについて、移動方法や地図など入念に下調べをしてきた谷川であったが、心の隙間に押し込み隠してきた不安や周囲への警戒心があり、それらが解かれ、パリの街で身を安心して預けられる日本人に出会ったように感じられた。 


オフィス内に貼ってある各ツアーの案内や表示が全て日本語であり、そういった日本的雰囲気も手助けしたのかもしれない。

 


出発予定時間まではまだ15分ほどあるため、待機場所で2人で腰掛けて待つことにした。日本人向けツアー会社なので当然、谷川とミヒャンの周囲の客は日本人ばかり。


耳に入る言語が全て日本語という状況は異国の地ではなんとも奇妙でもある。
客のほとんどは若いカップルか女性2人組。男性同士や男性1人という姿は確認できない。


そういう意味では男一人で来なくて良かったかもしれないな、と少々冷や汗も掻く。周囲からすれば、谷川とミヒャンも当然カップルであり、谷川とミヒャンは国籍こそ違うと見られるだろうが、カップルそのものであった。


 「ヴェルサイユ宮殿ツアーのお客様は、まだ・・・、だいぶ時間がありますが、お待ちいただけますか。」
 


受付の女性が、年配の客に告げる声が耳に入った。どうやらそっちのツアーの集合時間はまだ40分くらい先であるようだった。ツアー会社までちゃんと来れるかどうか不安で、結果的にそんなに早く来てしまったのだろう。日本人の時間に対するマナーには異国へ来ると微笑ましくも感じてしまう。
 


受付でもらったパンフレットには観光でやってきたおばさま方や若い女性が喜びそうなランチメニューやお土産が掲載されていて、物価の高いフランスというのを考慮してもかなりの高額だった。 


「これ、すごく高いよ、このランチ。ただのオムレツなのに。そんなにおいしいのかな。」
「モン・サン・ミッシェルはオムレツ、有名デス。タニガワさんのガイドブックで見ました。女性は、こういうの好きですよ。」 


 「ミヒャンも食べたい?」   


「いや、ワタシは、べつに・・・」   

「なんで? ミヒャンが食べるなら二人で予約してもいいのに。せっかくだから」


 「いいえ、高いです。20ユーロです。2600円くらいですよ、オムレツで」
「だよね。」
 


パンフレットをみながら、高いだの、このお土産はかわいいとか、かわいくないとか話しているうちに、受付の女性の「バスが到着いたしました」のアナウンスがオフィス内に流れた。


大型バスが大通りに付けてあるとのことで、ツアー参加者はオフィスより1分ほどぞろぞろ歩く。座席は自由席だというので車内の中程の席、谷川は窓側、ミヒャンが通路側に落ち着いた。

 


どうやら受付にいた女性が添乗員らしく、ツアー客が全員バスに乗ったのを確認して出発、ツアーの案内を始めた。

 


素敵な笑顔、聞きやすい声、柔らかいトーン、のんびりとしたトークスピード、初フランスの谷川にも分かりやすい歴史説明、どんな小さなことにも気を配っていた。 


「みなさま、何か御用の時はぜひ、ヒロ、と呼んでください。」
 


フランスでは下の名前でそう呼ばれているとのことだった。大型バスに乗るというのは、やはり気持ちがワクワクする。


きっと修学旅行などの記憶が根付いているからだろう。まずは、1つ目の観光地、ディーブ・シュール・メール村に寄るらしい。


滞在時間は40分くらいらしいが郊外の村を見れるのは興味深い。
 

ここのところずっと曇りや雨で、添乗員さんによると最近のツアーはずっと雨だったとのこと。モン・サン・ミッシェルがあるノルマンディー地方は今日は、曇り予報なのでなんとかもってくれるといいですね、と話していた。


青空をバックに修道院を写真に撮りたいとは思っていたが仕方ない。
 


時刻は7時半になっていたが空はまだまだ夜の暗さ。しばらくパリの街の景色を観ながら谷川はウトウトしてしまい、そのまま眠りに落ちた。  


おかやんの「とりあえず何でもひとりでやってみる」ブログ。

やりたい事は悩みながらなんでもやってみる。結果的に楽しんでる!また、何かに特化して書いているわけではありません。 書きたいことをごった混ぜにしてネタをブチ混んで書いていますhttps://www.instagram.com/the_unending_world/?hl=ja

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