パリ組曲⑳  「ワタシのことも思い出しますか?」

 サクレ・クール寺院へ行ったその午後、2人がサン・ラザール駅前のカフェで昼食をとっていると、予報通り雨が降り始めた。


またすぐに止むかと思われたが、そのまま勢いを増し、結局2人はミヒャンが持ってきた傘でなんとかずぶ濡れを免れ、かけ足でとりあえずホテルまで戻ってきた。 


「午後はずっと雨になるみたいです。」


 彼女は窓から降りしきる雨を眺めていた。 


「しばらくホテルで過ごしましょう。明日は1日モンサンミッシェルツアーです。今日は体を休めるのもいいです。」 


 てっきり彼女は意地でも買い物へ出かけたがるのかと思っていたため谷川は内心ほっとしていた。 

確かに小雨ならともかく本降りであったので、ちょっと買い物に出かけるのも気が引ける。しかしもし谷川ひとりであればたとえ雨でも、雨なりの楽しみ方でパリの街に出かけていってしまったかもしれない。


たいてい谷川は一週間くらいの海外の間は都市間移動をしながら毎日朝から晩まで歩き回り、最終日に体調を崩してしまうパターンがある。今回もそれを心配していたので、都市間移動はないにしてもここでゆっくり体を休める時間も必要だろうと考えた。 
 



朝買っておいたヨーグルトを食べたり、テレビを付けてフランスのニュース番組やバラエティのような番組をベッドに寝転がりながら見ていた。何を言っているかは分からないが連続的に続く異国の言葉を聞いているだけでも楽しかった。 



谷川は幼い頃から雨の音が好きだった。


小雨の音も、土砂降りの音も聞いていると癒された。無数の雫が空から落ちてきては連続的に地上の物に当たる、そのなんとも形容することのできない雑多な音が好きだった。 


小学校の頃、雨の日の放課後は家で何もせずとも布団に寝転がって窓の外をぼんやり眺めながら雨音を聞いているだけで楽しかった。ひとりでそんな風に過ごしていても寂しさなど感じない子供だった。 


 「ワタシ、雨の音、好きではありません。」 


 ミヒャンの声が回想を遮った。 


「雨は、うるさいです。韓国で小さい頃に住んでいた家、雨が降ると・・・えっと。」
 


ミヒャンがそこで言葉を考えているようだったので、彼は「アマモレ?」と聞いてみると、 

「アマモレ?」 

「そう、天井が濡れてね、雨が落ちてくることだよ。」 
 

彼は頭上を指して、その指を床に振り下ろした。 


「そうです。部屋の中で雨が落ちてきました。雨の音は嫌な音です。」

 「そうか、ミヒャンにとっては嫌な音、か。」 


彼はおもむろにミラーレス一眼レフを手に取り、窓辺に行って雨の景色に向けた。雨の軌跡を画面に収めるためにシャッタースピードを上げる。


さらに露出補正で全体的に少し暗くし、ISO感度を調整して、荒っぽい写り、昔のフィルムカメラのような質感をだそうと考えた。 

1枚・・・、2枚・・・と試しに撮る。 


「見せてください。」 

「ほら、雨がちゃんと写ってるだろ。これくらい勢いよく降ってると、綺麗に写るんだよ。景色が違って見える。写真が好きになって、雨の音だけじゃなくて、見方も変わった。」


 「雨も気持ちを持っているみたいですね。」 


「目では見えないそういう気持ちが、写真には写ると思ってる。映像はものすごく進歩してきて、きれいになったし、色んな撮り方もできるようになった。でも写真は、今も昔も一瞬を写すことに変わりはない。一台のカメラをこうして構えてね。あとで見返してみると、そこに撮った時の自分の感情が入っているような気がする。不思議だね。思い出せるんだ。」


 「今撮った写真も、日本に帰ったあとで見たら思い出しますか?」




「そうだね。雨の話をしたことをきっと思い出すだろうね。」 



「ワタシのことも、思い出しますか?」
 


そう聞かれるとは思っていなかった彼は、もし日本に帰ったらという想像をそこで一度巡らさなければ返事をすることができなかった。 


「君のこと?」 


「ハイ。」
 


思い出すも何も、きっと忘れることはないだろう。初めて訪れたフランス・パリで韓国の女性と共にする数日。
 


ミヒャンの垂れた2つの瞳が彼を見ていた。パリのことよりも、この女性のことを思い出してしまうだろうと、日本に帰国してからの自分が想像できた。

 

「忘れないために、君の写真を撮っていいかな。まだ一枚も撮っていない。」
 



無表情が美しい女性だと思った。

見る角度や首の傾度で様々な感情をそこに形成した。生まれ持った、というだけで人間の容姿という皮肉は運命を左右さえしてきた。おそらく、ミヒャンでなければ、空港で出会ったとしても、そしていかなる状況であったとしても惹かれることはなかっただろう。
 


彼は、ミヒャンの返事を待たずしてカメラを単焦点レンズに交換した。
 


どうして韓国の女性はこんなにも肌が白いのだろう。いや、それは偏見だ。きっと口に出して言えば、肌が黒い人もいる、とミヒャンは言うだろう。カメラのファインダーを通して見る彼女のそれは、加工処理されたかのような美しさを備え持っていた。
 


窓から入る僅かな光を利用して、彼はミヒャンに立ち位置を指示して動いてもらった。
レースのカーテンをほんの少しずらしたり、ミヒャンの顔の角度、視線の置き場も数枚撮る度に伝えた。
 


現実とファインダーで覗く世界を行き来しているうちに、理性と欲望とが混沌としてその境界線を成さなくなってきているのが理解できた。
 


理性と欲望とを均等に保っていた天秤が壊れていくようだった。彼は服を脱ぐように彼女に伝えた。


ミヒャンもまた、何も言わなかった。最初からそうするつもりであったかのように感じられるほど自然に、彼女の衣服はするりとなめらかな肌を滑り落ちていった。


裸の女性よりも下着姿の女性により興奮を感じた。その先にまだ秘密があるような、それを知りたいという欲望に駆られた。
 


50枚ほど撮ったところで彼はカメラをベッドに投げ、ファインダーではなく現実の世界のミヒャンの体を抱きしめ、ベッドに沈んだ。 

「あの、、、カーテンを、閉めてください。」
 

ミヒャンが彼の耳元で囁く。 

「誰からも見えないよ、ここは」 


乱雑に鳴り続ける雨の音が心地良く、耳奥に響いていた。

まるで無重力空間に漂っているかのようなフワフワした浮遊感が彼を包んでいた。このままパリの空気に溶けてこんでしまいたい。このままミヒャンとパリで暮らしたい。そんな、できるだけ愚かなことを想像することによって、彼は過去や現実や未来から逃避できた。


そうか、オレは逃げ出したいのか。そうだとして何からなのか。不満などない。不満などなくても、時として、別の自分でいたくなることもある。別の自分とは何なのだろうか。
鼻と口でミヒャンの腕を這い、瞳にたどり着く。潤う漆黒のガラス玉の中に別の世界があり、谷川は自分の影が映っていることに気付いた。ミヒャンが自分を見ているのか、あるいはもう一人の自分に客観視されているのか、分からなくなった。 


「どうしたのデスカ?」 


「ミヒャンは、オレのことを思い出すだろうか。」 


 彼女はまた、フフフと含み笑いをした。 

「きっと、こんな静かな雨の日に思い出しますよ。」 

 誰かの記憶に存在できること、そんな単純なことが目に見えない存在証明のようで、内なる暖かさに彼は安堵した。
 


二人が交わした、思い出す、という約束は、同時に彼らがパリの旅の後に物理的な距離以上に離れていくことを意味し、二人はそれを口にしない代わりに強く何度も抱き合った。 


おかやんの「とりあえず何でもひとりでやってみる」ブログ。

やりたい事は悩みながらなんでもやってみる。結果的に楽しんでる!また、何かに特化して書いているわけではありません。 書きたいことをごった混ぜにしてネタをブチ混んで書いていますhttps://www.instagram.com/the_unending_world/?hl=ja

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