サクレ・クール寺院へ行ったその午後、2人がサン・ラザール駅前のカフェで昼食をとっていると、予報通り雨が降り始めた。
またすぐに止むかと思われたが、そのまま勢いを増し、結局2人はミヒャンが持ってきた傘でなんとかずぶ濡れを免れ、かけ足でとりあえずホテルまで戻ってきた。
「午後はずっと雨になるみたいです。」
彼女は窓から降りしきる雨を眺めていた。
「しばらくホテルで過ごしましょう。明日は1日モンサンミッシェルツアーです。今日は体を休めるのもいいです。」
てっきり彼女は意地でも買い物へ出かけたがるのかと思っていたため谷川は内心ほっとしていた。
確かに小雨ならともかく本降りであったので、ちょっと買い物に出かけるのも気が引ける。しかしもし谷川ひとりであればたとえ雨でも、雨なりの楽しみ方でパリの街に出かけていってしまったかもしれない。
たいてい谷川は一週間くらいの海外の間は都市間移動をしながら毎日朝から晩まで歩き回り、最終日に体調を崩してしまうパターンがある。今回もそれを心配していたので、都市間移動はないにしてもここでゆっくり体を休める時間も必要だろうと考えた。
朝買っておいたヨーグルトを食べたり、テレビを付けてフランスのニュース番組やバラエティのような番組をベッドに寝転がりながら見ていた。何を言っているかは分からないが連続的に続く異国の言葉を聞いているだけでも楽しかった。
谷川は幼い頃から雨の音が好きだった。
小雨の音も、土砂降りの音も聞いていると癒された。無数の雫が空から落ちてきては連続的に地上の物に当たる、そのなんとも形容することのできない雑多な音が好きだった。
小学校の頃、雨の日の放課後は家で何もせずとも布団に寝転がって窓の外をぼんやり眺めながら雨音を聞いているだけで楽しかった。ひとりでそんな風に過ごしていても寂しさなど感じない子供だった。
「ワタシ、雨の音、好きではありません。」
ミヒャンの声が回想を遮った。
「雨は、うるさいです。韓国で小さい頃に住んでいた家、雨が降ると・・・えっと。」
ミヒャンがそこで言葉を考えているようだったので、彼は「アマモレ?」と聞いてみると、
「アマモレ?」
「そう、天井が濡れてね、雨が落ちてくることだよ。」
彼は頭上を指して、その指を床に振り下ろした。
「そうです。部屋の中で雨が落ちてきました。雨の音は嫌な音です。」
「そうか、ミヒャンにとっては嫌な音、か。」
彼はおもむろにミラーレス一眼レフを手に取り、窓辺に行って雨の景色に向けた。雨の軌跡を画面に収めるためにシャッタースピードを上げる。
さらに露出補正で全体的に少し暗くし、ISO感度を調整して、荒っぽい写り、昔のフィルムカメラのような質感をだそうと考えた。
1枚・・・、2枚・・・と試しに撮る。
「見せてください。」
「ほら、雨がちゃんと写ってるだろ。これくらい勢いよく降ってると、綺麗に写るんだよ。景色が違って見える。写真が好きになって、雨の音だけじゃなくて、見方も変わった。」
「雨も気持ちを持っているみたいですね。」
「目では見えないそういう気持ちが、写真には写ると思ってる。映像はものすごく進歩してきて、きれいになったし、色んな撮り方もできるようになった。でも写真は、今も昔も一瞬を写すことに変わりはない。一台のカメラをこうして構えてね。あとで見返してみると、そこに撮った時の自分の感情が入っているような気がする。不思議だね。思い出せるんだ。」
「今撮った写真も、日本に帰ったあとで見たら思い出しますか?」
「そうだね。雨の話をしたことをきっと思い出すだろうね。」
「ワタシのことも、思い出しますか?」
そう聞かれるとは思っていなかった彼は、もし日本に帰ったらという想像をそこで一度巡らさなければ返事をすることができなかった。
「君のこと?」
「ハイ。」
思い出すも何も、きっと忘れることはないだろう。初めて訪れたフランス・パリで韓国の女性と共にする数日。
ミヒャンの垂れた2つの瞳が彼を見ていた。パリのことよりも、この女性のことを思い出してしまうだろうと、日本に帰国してからの自分が想像できた。
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