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パリ・メトロplace de clichy駅から、ルーブル美術館近くの駅へと乗り継いで向かう。
首都の、しかも中心部に位置する駅だ。さぞかし賑わっているのだろうと想像していたけれど、人が多いのはともかく、お店、いわゆる売店やショッピング通路のようなものは一切ない。ただただコンクリートの壁、頭上には行き先を告げる標識が設置してあるばかりで東京と比べると殺風景な印象であった。
加えて地下鉄構内を行き交い、すれ違う人々のファッションは想像していたような華やかさはなく地味で、冬で着込んでいるためか、あるいは周囲のコンクリートがそう思わせるのか、ファッションの街という強さは感じられなかった。
それらと比べミヒャンは小柄な身長ではあるもののスニーカーにワンピースがよく似合い、背筋が伸びて綺麗なS字を描いている姿勢は、谷川の目の前を歩くどんなパリジェンヌによりも魅力的に映った。
目的の駅で下車、地上に出ると朝から続いていた雨がやんでいる。慎重な谷川は行った先で迷わぬよう、あるいはその都度バッグからガイドブックを出して、悩んだり考えたりして時間を使わないよう、地図や情報は頭にしっかり焼き付けてある。
国によっては旅行者だという姿をあからさまに出すとスリなどの危険にさらされるリスクもあり、谷川はできるだけ現地に馴染もうとしてきた。反面、ミヒャンは分からなければすぐに調べるという優等生であり、路上でガイドブックを開いて熱心に視線を送り続ける様は旅行者というより試験直前の受験生のようでもあった。
谷川の記憶とミヒャンのガイドブックの地図を駆使してルーブル美術館のチケットが買えるお土産屋を探す。世界中から観光客が集まるルーブル美術館は常に長蛇の列で、チケットの購入の列、その後の入場の列とで大変な混雑らしい。
そのため少しでもそれを回避するために穴場のチケット売り場を見つけておいた。美術館近くのデパートの地下で、お土産店の合間にあるという。 ケータイに保存しておいた写真を頼りに右かな、左かな、とまるでゲームのように初めて訪れた場所を歩き、モナリザのポスターが目印であるそれを見つけた。
列はできているようだが、流れは早く時間はかからなそうだ。2人で最後尾に並ぶと間髪入れず次々と背後に人が並び列を絶やさない。 背後はどうやら日本人の男女。20代後半だろうか。女性のほうがよく話し、男性のほうはそれに、うん、とか、そうだね、と返している。
谷川は、海外へ来てまでわざわざ日本人と接しようとは思わないが、ミヒャンにとっては日本人でも外国人であり、加えてパリへ来て、チケット購入の列でばったりという偶然に心躍っていた。
「話してみたいです」
ミヒャンはこっそりと谷川に尋ねた。
「何を話すの?」
「えーと、どこから来たのか、とか」
「聞いてどうするの?」
「仲良くなります。」
そう言ったかと思うとミヒャンは話しかけてしまった。仕方なく谷川もそちらに顔を向ける。
日本人女性は気さくにミヒャンと話してくれ、どうやらパリのディズニーランドへ行って来ただとか、シャンゼリゼ大通りで買い物をしただとかを話してくれた。すると女性が不意に谷川を見て口を開く。
「初め、兄妹かと思いました。顔が似てるから。」
ミヒャンはそれに対して、 「フフフ。違います。」 と含み笑いをする。
谷川は愛想笑いを返しながらも、それにしても顔なんて似てるだろうか、などと疑問を脳裏に浮かべた。
男という生き物は、母親に似ている女性に無意識に好意を抱きやすいと聞いたことがある。そんな心理も働いているのかもしれない。
「韓国と日本ですけど、ワタシたち、似てるのでしょうか。」
否定しているのか、していないのか、ミヒャンは嬉しそうに谷川を見つめ、彼の手を取った。
谷川とて、似ていると言われると、なんだかそんな気もしないでもなく、なんとなくミヒャンが自分の母親の若い頃に似ているような気がしてきては、血が繋がっているという意味では似ているのかもしれないな、と腑に落ちたのだった。
日本人カップルの彼らと雑談を交えつつ、チケットの列はスムーズに進み、お互いに無事に購入にありつけた。かといって、では入り口はどこか、という次の問題があり、ルーブル美術館へとにかく向かってみることに。
大混雑の、地下のショピング街に沿って歩き、なにやら再び長蛇の列に出くわす。列の先頭は確かに入り口らしいが、係の人に購入済のチケットを見せると、地上のピラミッドがから入れる、という情報へ得て、二人は次に地上への階段を探し、ルーブル美術館のモニュメントであるピラミッドへと向かう。
このピラミッド、展示物かと思いきや扉があり、れっきとしたルーブル美術館入り口となっていて、係の女性がせっせとチケット購入済の人とこれから買う人を分けて案内していた。
やはりチケットはデパ地下のお土産屋で買っておいて正解だったようで、ここでのチケット購入は先頭も最後尾も見えない長さの行列を成している。
ピラミッド入り口にて手荷物検査を受け、入館。エスカレーターを下っていくと巨大なメインホールがあり、人々がアリのように動き回っていた。
以前、パリではテロが起こったせいか、ホールには大きな銃を構えたフランス軍の兵士たちが数名で歩きながら周囲に睨みを効かせている。
やっとのことで入場ゲートまできたと思ったら、谷川のリュックが大きさで係のおじさんに停められてしまった。ホームページで持ち込み可能なサイズを調べてきたつもりであったが、そういうのはここでは通じないらしい。
おじさんに指さされた先にはクロークの文字。荷物を預けてこい、ということだ。仕方なく、再びごった返すホールに戻り、クロークへ行き、空いているロッカーをなんとか探し出し、リュックを詰めこむ。
ようやく入ったルーブル美術館、内部。
ガイドブックには、「まずモナリザを見に行け!」と書いてある。いつでも大混雑だからとにかく最優先で見ろ、ということらしい。例えそうでなくとも谷川は真っ先に見たかった。
館内にはモナリザの案内表示矢印がいくつかあり、それを頼りに向かう。 辿り着いた先は、何事かと思うほどの人だかり。
「どうしようか」
「どうしましょう」
二人はモナリザに群がる何百人もの人混みを前に立ちすくむ。
その間にも、すれ違う人たちで肩や体が否応なくぶつかる。
「ここまで来たら、行きましょう」
先にそう口にしたのはミヒャンだった。
「じゃあ、最前列まで」
日本の朝の満員電車にむりやり乗るかのように、モナリザに向けて体を押し込んでいく。
ゆるゆると進みながら20分以上かけてたどり着いた最前列。
「すごいですね。モナリザです。本物です!」
ミヒャンの歓喜の声にも誘われ、谷川は腕に鳥肌を感じた。雑誌やテレビなどで何度も目にしてきた微笑みが目の前にある。
谷川は今でこそ絵を描くことはないが、何かに悩んだり、無心になりたい時、デッサンや水彩画を描いていた時期があった。
下手だとか上手いだとかは気にせず、何時間も描いていた。
自己表現というのは誰かと比べることに意味はない。誰かに見せるわけでも、達成感を得るわけでもない。ただその時に気持ちを吐き出したいのだ。吐き出し切ることで頭の中の何かモヤモヤを消し去りたかった。
「世界の名画」という雑誌で、モナリザが紹介されていた時、彼はその絵をひたすらデッサンした。その微笑みが彼の心を無心にさせてくれた。何時間も鉛筆を走らせていてもモナリザは微笑み続けてくれた。
あの時の、もはや理由も忘れてしまった悲しみや切なさが思い出され、そんなこともあったなと、しばし追憶の情景に駆られた。あれから成長できている自分が少し誇らしかった。
ふとして周囲を見回せば、世界中の、大勢の客が眼の前のモナリザを写真に収めていた。背後から波のように押し寄せる人混みの圧力を感じていた。凄まじい熱量だった。
「ミヒャン、本当に嬉しいよ。オレ、ここへ来れて。ずっと見たかったんだ。」
そういった言葉を聞いてくれる人が、旅の中で隣りにいることが喜びだとも初めて彼は気付くのだった。
「良かったですね。次は何を見に行きましょうか。」
些細な喜びを共感してもらえるだけで人は明日を生きていけるのではないか。ただ側にいてくれるだけで自分という存在を肯定できるのではないか。
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