朝。そこはミヒャンのホテルの部屋だった。
ドライヤーの轟音が耳に障り、目が覚める。
ああ、ミヒャンが使っているのだな、と彼はぼんやりと思った。
外はすでに明るいようだった。ということはもう9時近くなのか。
シャワーでも浴びたのか、彼女はどうやら洗面所にいるようだった。谷川が目覚めてベッドで横たわっている間もしばらくドライヤーの音は途切れなかった。
自分の口唇を触ってみる。
まだミヒャンの感触を覚えていた。昨夜の、舌先に残る柔らかい感覚がまだ谷川の下腹部を刺激しようとしていた。
起き上がり、洗面所を見ると、Tシャツにジーンズ姿のミヒャンが髪を乾かしている。
谷川に気付いた彼女は鏡越しに微笑みを見せた。
「オハヨウゴザイマス。」
「おはよう。」
彼もミヒャンも、もうずいぶん前からお互いを知っているかのようにごく当たり前に挨拶を交わす。
そんな風に思えるほど彼女は平気な顔をしてみせた。
谷川もそう装っている自分に気付いていた。
狭い客室のベッドに腰を掛けて、彼女の後ろ姿をぼんやり眺めていると、ドライヤーの風に揺れる黒髪の流れが昨夜のミヒャンの体を艶かしく思い出させ、その小さな背中に視線を泳がせながら、一体このパリの旅はどんな意味を与えようとしているのか、と彼は考えずにはいられなかった。
彼女と出会うことになったのは何故なのか。
パリへいつ行くか、どの飛行機に乗るか、ホテルはどこにするか、さんざん考え計画し、やってきて、そんな寸分の狂いもない確率で彼女と出会った意味が知りたい。そう考えてしまう。
きっと、ミヒャンを見送る時にそれは大きな波のように押し寄せてくるのではないか。
いつも、リアルタイムで過ごす人生では分かり得ないことが時の経過と共に波紋のようにやってきて、きっとこうだったのではないかと何か理由を付けて納得する。
人生とはそういった記憶の整理の連続のような気がして、もしそうであるなら、ミヒャンと出会った日の記憶や、昨夜の出来事をどう整理すればいいのか。
そもそも整理などできるものならそこに発生してしまう悲しみを抱え、悶えなくとも済むのに。
「タニガワさんもシャワーを浴びてください。そのあと、朝食を食べにイキマショウ。」
平気な顔でそう告げてきたミヒャンに返事をし、谷川はシャワーを全開にして思い切り頭で浴びながらも自分の頬をつねったり、首を傾げたりして、計画になかった突如の出来事の解読に思考を費やしていた。やがてこの時間も記憶となり、脳裏にしか存在しなくなってしまうのだろうか。
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