パリ組曲⑯ お互いの家族


朝。そこはミヒャンのホテルの部屋だった。


ドライヤーの轟音が耳に障り、目が覚める。


ああ、ミヒャンが使っているのだな、と彼はぼんやりと思った。


外はすでに明るいようだった。ということはもう9時近くなのか。  


シャワーでも浴びたのか、彼女はどうやら洗面所にいるようだった。谷川が目覚めてベッドで横たわっている間もしばらくドライヤーの音は途切れなかった。  


自分の口唇を触ってみる。

まだミヒャンの感触を覚えていた。昨夜の、舌先に残る柔らかい感覚がまだ谷川の下腹部を刺激しようとしていた。  


起き上がり、洗面所を見ると、Tシャツにジーンズ姿のミヒャンが髪を乾かしている。

谷川に気付いた彼女は鏡越しに微笑みを見せた。 


「オハヨウゴザイマス。」 


「おはよう。」  


彼もミヒャンも、もうずいぶん前からお互いを知っているかのようにごく当たり前に挨拶を交わす。

そんな風に思えるほど彼女は平気な顔をしてみせた。

谷川もそう装っている自分に気付いていた。  


狭い客室のベッドに腰を掛けて、彼女の後ろ姿をぼんやり眺めていると、ドライヤーの風に揺れる黒髪の流れが昨夜のミヒャンの体を艶かしく思い出させ、その小さな背中に視線を泳がせながら、一体このパリの旅はどんな意味を与えようとしているのか、と彼は考えずにはいられなかった。

彼女と出会うことになったのは何故なのか。  


パリへいつ行くか、どの飛行機に乗るか、ホテルはどこにするか、さんざん考え計画し、やってきて、そんな寸分の狂いもない確率で彼女と出会った意味が知りたい。そう考えてしまう。  

きっと、ミヒャンを見送る時にそれは大きな波のように押し寄せてくるのではないか。 

いつも、リアルタイムで過ごす人生では分かり得ないことが時の経過と共に波紋のようにやってきて、きっとこうだったのではないかと何か理由を付けて納得する。

人生とはそういった記憶の整理の連続のような気がして、もしそうであるなら、ミヒャンと出会った日の記憶や、昨夜の出来事をどう整理すればいいのか。

そもそも整理などできるものならそこに発生してしまう悲しみを抱え、悶えなくとも済むのに。 


「タニガワさんもシャワーを浴びてください。そのあと、朝食を食べにイキマショウ。」  


平気な顔でそう告げてきたミヒャンに返事をし、谷川はシャワーを全開にして思い切り頭で浴びながらも自分の頬をつねったり、首を傾げたりして、計画になかった突如の出来事の解読に思考を費やしていた。やがてこの時間も記憶となり、脳裏にしか存在しなくなってしまうのだろうか。

  

谷川にとって、旅でもっとも恐れるべきものはもしかすると人との出会いであったのかもしれない。  


またね、と言ってお別れをしたあとの、あの、出会いに感謝する気持ちと共に訪れる言葉にできないひとりきりの寂しさはいつも彼を困惑させ、そして旅の終わりを彩ってきた。 

そうか、人生もまた旅でしかないのだ。だから、いいんだ。あと四日間しかないパリの滞在、その時間をこの女性と過ごしてみよう。その四日間が過ぎた後に何か答えがまっているのだろう。


そうぼんやりと考えた彼はシャワーのお湯を、まるで修行のように後頭部で受けながら時間に身を任せることにした。 


谷川にとって、日常生活でいつも相性が良い女性は積極的な人であった。仕事や雑事を誰が言うでもなく、考える前にこなしていく。恋愛対象ではなくとも、慎重に考え物事を進めるタイプの自身と違って、女性にそういった頼れる面があると彼は居心地の良さを感じることができた。  


旅のスケジュールこそ彼が考えて決めてはいるものの、話題の多さや無鉄砲ながらもテキパキとした行動力はミヒャンのほうがずっと優っていた。出会ったばかりだというのに気づかいなく、そういった疲れも感じず、一人旅で来たはずの時間を共有できるのはそういった相性があるのかもしれなかった。  

着替えを済ませ、昨日と同じように地下一階の朝食会場へ行くと、やはり同じ、体格の良い黒人女性が調理場にいて笑顔を2人に放った。 


「ボンジュール」  


2人も彼女の言葉に、おはよう、の挨拶を返し、部屋番号を伝え、席に着く。  朝食を摂りながら、谷川はミヒャンの体つきや腕や指、口や仕草を見つめていた。


昨夜抱きしめた女性が、本当にこの女性なのか疑わしいほど彼にとってパリもミヒャンもまだ夢の世界のような気がしてならない。   


「何でしょう?」 


「ずいぶん細いんだなと思って、体が。肩とか、腕とか、指も。」 


「昨日の夜、タニガワさんはワタシの体を見ましたよ。知っているのに。」


  ミヒャンは谷川のことなど見ず、パンにバターとジャムを塗りながら、フフフ、と含み笑いをそこに足した。彼は恥ずかしさを隠して口にした言葉であったが、彼女がストレートにそう告げてきたもんだから、まあ、そうなんだけど、と抜けた返事を戻す他なかった。 


「韓国の女性は、みんな細いのかなあと思ってね」  


話をごまかすために彼はそんなトンチンカンなメディアのイメージを口にする。 


「日本の男性は、いつもそんな聞き方をシマス。韓国にも、イロイロなヒトがいます。太っているヒトもいますよ。」 


 再び彼は、そうだよね、と気が抜けた返事をし、何も言えなくなる。同時に、彼女が出会ってきたであろう「日本の男性」が気になってしまった。これはささやかな嫉妬なのかもしれないな、彼は冷静に考えては内心嘲笑した。 


「でも、母親もとても身体が細かったと思います。嫌いですけど、綺麗な人だったと思います。夜になると、メイクをして綺麗な服を着て、仕事へ行く母のことを覚えています。料理も洗濯もしない母でした。」  


ミヒャンは記憶を遡って話す時、谷川ではない別のところを見ながら、顔をゆっくりゆっくり上下させ、自身に納得させるように言葉を紡いだ。その脳裏には、その記憶が昨日のことのように鮮明に映っているのかもしれない。 


「タニガワさんの両親は、どんなヒトなんですか?」  


不意にミヒャンが尋ねてくる。 


「オレの?」


 「家族って、どういうものなのかなあ、と人の話を聞きたいです。タニガワさんの両親はどんな人なのか知りたいです。」  


谷川はミヒャンの家族が離散状態にあると聞いたことを思い出し、その心情を察するならば、家族は良いものだなどと一般論を口にすべきではないと思うものの、どんな人なのかと聞かれると説明に困る質問でもあった。  


ただ思い出すのは、中学高校の頃は反抗期も重なり、彼は父親を殺したいほど憎んでいた。何を言っても何をしても否定の言葉しかない父親を好きになったことは一度もない。


母親はそんな谷川青年と父親の関係の間に入り、か細い身体でよくケンカの仲裁に入った。彼は母親を悲しませたくない一心で、その時ばかりは冷静さを取り戻すことができた。


家庭内ではろくな父親ではなかったが、世間には良い顔ばかり見せ、まるで家庭円満にように演じる姿も嫌いであった。勝手で横暴な父親であったが、同時にそうさせてしまい、助長させてきたのは父親から3歩も4歩も身を引き、なんでも許してしまう母親の性格にあると谷川は10代の頃にすでに感じていた。  


谷川はそんな母親の優しさを譲り受けて育ったことを実感してはいるが、父親の横暴なそれも時たま性格に表出してしまうことも自覚していて、自分の性格の形成を恨むことすらあった。 


「そんな感じかな。あんまりいい思い出はないよ。今でも父親は好きになれないし。」 


「意外でした。タニガワさんはきっと家族が好きだとおもいました。でも、両親がいるっていいことですよ。」 


 ミヒャンがそういって微笑みを向けてくるもんだから、谷川も、そうだね、なんて言って彼女の気持ちを尊重し苦笑いで返事をした。 


「ミヒャンは韓国にたまには帰ることもあるの? 実家は? 育った家。」  

話の流れで聞いてしまったことだが、ミヒャンはいつも谷川の想像にない答えを口にする。そしてそれに惹き込まれる。自分の悲しみなど醜いものに違いないのに、他人の悲しみが美しい物に思えるのはどうしてなのだろうか。 


「韓国には、もう家はアリマセン。日本に留学している間、父親の借金で、他の人が買ったと聞きました。だから私は韓国では、もう帰る場所はアリマセン。父も母も別に暮らしています。だから、谷川さんがうらやましいです。帰る場所があるって。」  


どうしてミヒャンは微笑みをそこに作れるのだろう。 


「ゴメンナサイ。暗い話ではアリマセン。別にもう気にしてないです。今はダイジョウブです。」    


微笑みを添えるのは、他人に過去を話す時くらい少しでも明るくしたいという表れなのかもしれない。あるいはそういった話を出してしまった谷川に気を使っているのかもしれない。今はダイジョウブ。その言葉から読み取れるのは、無理をしてそう言葉にしたということ。他人に家族の話を聞くということは自分の家族と天秤にかけて、そこに何か見い出したいという表れ。表情に見せない、まだ癒えない過去がそこにあるような気がした。

そういった憶測も含めて、ミヒャンの健気な性格が波動のように漂って来ては彼の意識を包み込んだ。  


どちらにしてもミヒャンの口からぽつりぽつりと出る過去の話は、パズルのピースのようで、そしてそれはまだミヒャンという女性の全体像を把握するためには数が少なく、空白が多すぎた。 


その空白が何なのか、それを考えるほどに急激な引力で彼はミヒャンに惹き寄せられ、ただただ彼女を抱きしめたいという欲求に駆られた。 


「タニガワさん、早く食べて、ルーブル美術館にイキマショウ。パリを楽しまないとイケマセン。」  


ミヒャンは自称するその大きな口で皿に残されていたハムをフォークでおいしそうにパクリ食べた。  

谷川には、微笑む、その半月の様に弧を描く口唇が艶かしくみえて仕方なかった。


つづく。 


おかやんの「とりあえず何でもひとりでやってみる」ブログ。

やりたい事は悩みながらなんでもやってみる。結果的に楽しんでる!また、何かに特化して書いているわけではありません。 書きたいことをごった混ぜにしてネタをブチ混んで書いていますhttps://www.instagram.com/the_unending_world/?hl=ja

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