彼らはルーブル美術館に3時間ほど滞在した。
名のしれた絵画や彫刻は、館内図に記載があったり、通路に案内表示が出ていたりしたが、他のものは場所がさっぱりわからない。
そのため元々は宮殿や要塞であった迷路のような館内を迷いに迷い、係員に聞きながら目的の美術品を見て回った。
さすがにヘトヘトになり、地下のフードコートで遅めの昼食を摂る。パンやサンドイッチやドーナツが主なメニューであったが、相変わらず日本円で考えてしまえば高額な支払い。
高いですねえ、とミヒャンが苦笑いをしながら水を買う。
休憩を経て、さて動こうかというときには時間は午後二時を回っていた。 地下から地上へ出ると、まだルーブル美術館前は長蛇の列が続いていた。
その日は8時までの夜間開館日ということで、観光客が絶えないようだ。 二人はそのままセーヌ川沿いの道を歩いた。急ぐことなどない、のんびりとした散歩だった。
どこもかしこも日本とは異なる建物、人、景色、文化であるのに谷川は何かが懐かしいような気がする。アジア人の姿は周囲にはなく、海外へ来たというよりは本当に異世界に来ているような錯覚さえあった。
谷川は、ふと、高校生の頃に付き合っていた女性とのことを思い出した。けんかや言い合いのない、何かも新鮮でいた頃のことだった。若くて、無鉄砲でただ突き進むだけの恋愛だった。近所の川沿いを一緒に歩いたことがあった。こんな風に穏やかな、冬の日だった。けんかをして別れてしまったというのに恋愛とは不思議で、きっとそれで良かったのだと思うようになる。
ミヒャンとこうして歩いていられるのは、ただ同じ時間を過ごす、という単純な気持ちでいられるからなのだろう。
「タニガワさん、本と同じ景色があります。ほら。」
彼女が指さした方向には、セーヌ川に浮かぶ観光遊覧船と大きな石造りの橋があった。船のデッキには何人かの客が見えた。
「寒そうデスネ」
ミヒャンがそう言った時、その客がこちらに手を振っていた。ミヒャンも振り返す。あっという間に、遊覧船は行ってしまう。
たまたますれ違った人との出会い。そういった出会いを今まで受け入れてきたのだ、と谷川は思った。時間と共に、あっという間に何もかもが流れていく。大切だった気持ちも悲しみも。嬉しさも喜びも。
高校生の頃、幸せという気持ちは貯めておければいいのにな、と彼は考えたことがあった。寂しい時、悲しい時、それを少し取り出せればいいのに、と本気で考えたことがあった。たどり着いた答えは、その時の幸せに固執してはいけないのだ、という戒め。その時々で人間は幸せを作らねばならないんだ。決して横着して貯めておこうなどと考えてはいけない。そうやって自問自答の答えを導いては、なるほど、と彼は納得した。
ここが懐かしいのはきっと、ただ少しのぞいただけの小さな路面店の店主や地元のパリっ子や観光客も、ちょっと目が合うと微笑み返してくれるからだろう。ここが懐かしいのはきっと、景色や情景ではなくて、心の残るそういった思い出や考えに呼応しているからなのかもしれない。
その記憶の情景の中に、今、現実として横に佇むミヒャンがいて、なんの隔たりもなく何でもない時間を過ごしていると思うと、彼はなおいっそうミヒャンが愛おしく感じてくるのだった。
セーヌ川沿いを歩いていると、シテ島の中に建つノートルダム寺院の矛先が見えてきた。
聖母マリアを称える目的で造られ、1163年から200年かけて完成したと言われる。 ナポレオンの戴冠式が行われた場所でもあり、フランスの歴史上、重要な舞台となった。映画「ノートルダムの鐘」でも有名である。
その寺院の入り口からはこれまた長蛇の列。ざっと100m以上。まるでディズニーランドのようだ。
「ここもすごい人だね。」
「そうですネ。タニガワさん、中に入りたいですか?」
「いや、いいよ。これじゃあ、どれだけ時間かかるか分からないからね。」
「そうですね。近くで見れるだけでも、嬉しいです。」
二人は長蛇の列の横を通り抜け、寺院に近づいて眺めるだけ眺めることにした。 入り口の門には「最後の審判」の荘厳な彫刻が施されている。石材に彫られたとは到底思えない。まるで精巧な人形がそこに置かれているようだ。何人もの人々が写真に収めている。
「タニガワさん、シンパン、とは何ですか?」
ミヒャンが口をポカンと開けながら、頭上の巨大なそれを見上げていた。
「審判か。うーん、難しいね。神様に、自分が良い人間か悪い人間かを決めてもらうことかな」
「神様に?」
「そう、神様に。それまでやってきたことが良いか悪いか、最後に神様が決めるんだ。」
「良いか、悪いか、ですか。」
「そう。」
良いか、悪いか。最後の審判。日本で言えば閻魔様みたいなものなのか。 そんな、白か黒かで、人生決められてなるものか。 悪いことも良いこともするから人間なんだ、などと芸術品に悪態ついているとミヒャンが口にする。
「ワタシは、悪い、でしょうか。心配です。」
谷川自身が大して深く考えてなかったこと、加えてミヒャンが微笑んでそう言うもんだから、何かイタズラでも心当たりがあるのか、と彼はミヒャンの言葉を気に留めなかった。
「へえ、何かしたのかな。」
そういって彼は寺院の空を見上げていると、鳥が多いことに気付く。観光客が何かエサをあげているのかもしれない。
ミヒャンも寺院の彫刻を見上げていた。
「離れてしまった家族のこと。今も、イロイロ考える時、アリマス。エッフェル塔に行って分かったことがあります。あの時、父と母は幸せだったからワタシが生まれたのだと思います。それが分かりました。でも、今は母が好きではありません。韓国の友達はみんな、家族を大事にしています。ダカラ、ワタシは悪いことをしているような気がします。」
度々、ミヒャンの口からは家族への思いが吐き出されてきた。きっと、今に至るまでには耐えなければならない辛い出来事があったのだと谷川は思ったが、それが何かを自分の質問によって思い返させてはいけないと思った。
「今、お父さんとお母さんは、どこに住んでいるの?」
代わりにそんなことを聞いた。
「母は分かりません。父は、ソウルから離れた小さい町です。父は、母のことを知っていると思います。」
周囲の大勢の観光客の声でかき消されそうなほどか細い声であった。
最後の審判、が二人を見下ろしていた。雲が流れていった。午前中の雨のせいで地面はまだ濡れていた。わずかにノートルダム寺院の上の空だけが青空を垣間見せ始めていた。
「そっか。」
谷川は、それが口癖のようになっていた。時折、そっけない、などと言われてきたが、彼にとってそのセリフは全部受け入れている時の言葉でもあった。
「たくさん考えて考えて、そしたら何か、答えが出ると思う。そのためのパリ旅行にしよう。」
一緒に、という意味を込めたつもりだった。いい加減に言ったつもりはなかった。かといって、的を射た言葉を言えたつもりもなかった。どう返していいか分からず、ただ前向きな言葉を彼は口にしたかった。
ミヒャンはそれには笑顔で「ハイ。」と言い、
「いつかそういう気持ちが晴れたら、いいです。今日の天気みたいに。」
本当はもっと何か上手に聞いてあげるべきだと彼は分かっていたけれど、ミヒャンも思い出したことをつい、よく考えもせずに谷川に言ってしまったと感じていた。ミヒャンはミヒャンで、家族のことはパリにいる間はしばらく心の奥に置いておくことにした。
シテ島を後にして通りを歩いていると、何かの歴史的建造物に出くわす。パリ市庁舎だ。その前の広場では何やら路上パフォーマンスが行われ人だかりができていた。このあたりはマレ地区と呼ばれ、カフェも多く、また若者が多く集まるファッション街となっている。
買い物をしつつ最寄りの地下鉄からそろそろ帰ろうと話し、雨上がりの通りを歩いている時だった。
「悲しいデスネ。とても悲しいデス。」
ミヒャンはそう言って立ち止まった。
視線の先には、土下座のような姿勢で、地を這うように手を合わせる老婆がまるで猫のように道の隅にいる。物乞いというやつだろうか。
「パリにもいるんだね、ああいう人が。」
その何かを乞う姿は、まるで「最後の審判」を待つ者のようでもだった。
とてその老婆を視界に入れ、胸が締め付けられるような気持ちになるのは同じであった。ただ、東南アジアやインドでは何も珍しいことではない。そもそも東京にだって地方都市にだってホームレスというのは存在する。人間社会がある以上、存在し得ると思わなければいけない。下手な同情などいらない。ただ素通りすればいい。それだけのことだった。
「お金、あげたいです。」
「ミヒャン、余計なことはしないほうがいい。スリのグループかもしれない。財布を出したら取られるかもしれないよ。」
「でも、あの人、かわいそうです。」
「分かるよ。でもほら。みんな無視して通ってるだろ。オレたちもそれでいいんだよ。」
そうは言ったものの、一瞬のうちにミヒャンの瞳には涙が溜まったものだから谷川は驚いて次の言葉を探せなくなってしまった。
「ワタシは、良いこと、したいです。もう、悪い、になりたくないです。」
ミヒャンはそう言うと、財布を取り出し、老婆の元へ行ってしまった。慌てて谷川も後を追う。ただの物乞いならいいが、観光客の同情をねらったスリグループの一味であれば大変だ。ミヒャンが老婆の前に立っても、老婆は気付いていないのか頭をあげたりはしない。ただ合掌された手が微細に震えていて、何かを恐れているようでもあった。
「タニガワさん、この人に家族とか、どこに住んでいるのか、聞いてもらえますか?なんでこんなことしてるのか。」
「だって、オレ、フランス語話せないよ。」
「英語で」
「英語で、って・・・。」
谷川は、足元の老婆を見下ろしながらそう零した。英語が通じるとはとても思えなかった。
「お願いします」
真剣な眼差しが谷川に向けられている。同時に、周囲の人間の視線も気になった。水と油かのように避けて通る人波を感じていた。
「わかった。」
半ば仕方なく彼は頷いた。
エクスキューズミーと声をかけてみたが反応がない。二度、三度。返事もない。やはり英語は通じないのか。それにしても顔くらい上げてもいいだろう。
その時、谷川は、ハッとした。老婆の合掌する手がガタガタ震えて始めたのだ。まるでそこに立つ二人が神であるかように、老婆は恐れを否定しなかった。
彼は一度ミヒャンを見て、首を振ってみせた。ダメだ、やめよう、と合図したつもりだった。けれど、ミヒャンはそれが通じなかったのか、それともそれが嫌だったのか、老婆の肩に触れ、ポンポンを叩いた。老婆が顔を上げることはない。ただただ震える諸手を差し出すばかり。
ミヒャンがその皺だらけの手に10ユーロ札を置くと、老婆はそれを掴むというよりは手を添えるというような柔らかい動きで、ゆっくりゆっくり、正座をする膝の下にしまった。
それからまた老婆は何事もなかったかのように再び合掌をした。震えは小さくなっていた。
「すみませんが。」
突然の男の声に谷川は背後を振り返る。一瞬、本当にスリグループに目を付けられたかと谷川は警戒した、が、おそらく、一般のフランス人だろう、紳士的な中年男性と奥さんだと思われる女性が谷川とミヒャンを見ていた。
「観光客だね。ありがとう。お金を渡したんだね。でも、気をつけなさい。物乞いはこういう静かなやつばかりじゃないからね。」
分かりやすい英語であり、また丁寧な態度であったため谷川は安堵する。
「あげてもいんでしょうか? これが彼らのためになるのでしょうか。」
「日本人は仏教でしょう? 私はキリスト教徒だ。 しかし、そういったものを超えて、誰かを助ける行為に良いも悪いもない。見なさい、この女性を。きっと一日中こうしているのだよ。寒さと空腹で震えているのかもしれないし、君たちが怖いのかもしれない。あるいは演じているのかもしれない。いずれにしても、一日中こうやっている対価として君たちのような人々がマネーをあげるのは、彼らにとっては仕事となり、給料だ。ただそれだけのことだ。」
ミヒャンが頬を濡らしていた。それを見て、女性が「あなたは良いことをしたわ、いいのよ。」と声をかけた。ミヒャンは黙ったまま微笑んでいた。
「では良い旅をね。」
奥さんが一度、振り返りこちらへ微笑みを送り、小さく手を振っていた。
谷川とミヒャン、そして老婆だけが取り残され、通り過ぎる人々が水と油かのように彼らを避けて通り過ぎていった。
ミヒャンが言った、「家族はどこにいるのか」という言葉がリフレインして谷川の脳裏から消えなかった。
本当は、嫌いだという母のことが気になっているのだろうと谷川は感じ取っていた。
夜、二人はシャンゼリゼ通りへ夕飯にでかけた。ミヒャンがまた凱旋門を見たいと言い、ついでにレストランを探すことにした。値段が手頃で雰囲気も良さそうな店に入り、窓際の席でパスタとワインを口にした。
おそらく観光客しかいないのだろう、大抵が年配の夫婦や若いカップルたちだった。
穏やかな時間が流れ、その日は谷川のホテル「Bモンマルトル」の部屋で二人は体を休めた。
「父に連絡してみようかとオモイマス。」
谷川はその返事を数秒考えたものの、体も思考も疲れ切っていてうまく働かず、うん、そうだね、と返すその間にミヒャンはすでに寝息をたてて眠りに落ちていた。窓から見える空の、厚い雲の向こう側に僅かに月明かりが見えていた。
つづく。
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