ウズベキスタンの旅⑨ 物乞い


 首都タシケント。金曜日のモスク。


お祈りのために数百人、いや、1000人以上の男性たちが次々に集まり始める。


通り過ぎる彼らに誰彼構わず女の子が近寄り、小さな諸手に持ったビニール袋を差し出す。


見ていると、ほとんどの人は無視して通り過ぎるが、時折、小銭程度を渡す人もいる。


喜捨を求める子供であった。


物乞い、と呼ぶには適さない普通の格好をしているように見える。


東南アジアの物乞いといえば、ボロボロの服を身に着け、見ればすぐに分かるが、さて、どういったことか、もしかしたら冬があるウズベキスタンであるから厚着をしているだけであって、その分、みすぼらしく見えないだけかもしれない。


「ウズベキスタンにもいるのか・・・」




私は自然とそう口にしていた。
全く予想していなかった展開に突然考えさせられることになる。


できれば見たくなかった光景なのだ。貧困とは、人間が存在する以上、「差」として必ず誰かがその役割を担うことになる。そしてそれはくじ引きなどの運ではなく、教育や学力、家庭の問題という、成るべくして成る層が遺伝のように連鎖して何世代にも渡って続いていく。
どの国もたいてい共通している形がある。
少女の物乞い。

男子よりもはるかに同情を買いやすく、喜捨を集めやすい。
私達日本人にも隣りにぴたりと張り付いて共に歩きながら、手に持った袋の口を広げて見せて、恵みを乞う。何語かで何か言っているが、分からない。おそらく、食べ物かお金をくれないか、と言っているのだろう。


その土地の文化も知らずに安易にあげるべきではない、という考えなので私はお金を渡すことはなかった。


実際、バザールでは、親の仕事が忙しいような子どもたちは共に店番をして元気に働いていた。


物乞いだろうと店番だろうと日本ならば児童労働の禁止により、児童相談所なり警察なりが来て保護されるだろう。


物乞いの中には私の息子と大差ないような年齢の男の子もいて、胸がきゅっと締め付けられる。


親が子供に物乞いをさせる理由はそういった「同情を買える」から。大人が同じことをしても人間の心に訴えかける力は弱い。


 乞う行為をするのは何も子供だけではない。 大人、しかも老婆や障害を持った老人だ。これらも人々の同情を買いやすい。


 実際に貧困層であることは想像に固くないし、よりお金を集められるよう同情に訴えかけているとしても、「物乞い」をする人々がこうして庶民の身近な社会の片隅にいるということがまだ私の心に衝撃を与えようとしてくる。


物乞いなどどこにでもいる。


そんなことはわかっている。


私はその事実を理解したいのではない、受け入れたいのではない。


何もできない無力な自分がただただもどかしいのだ。


私は旅人であって、ここに何かをしに来たのではない。
そう言い聞かせなければ、この無駄な正義感を消すことはできないのだ。



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