ウズベキスタンの旅⑧ モスクの礼拝

チョルスーバザールからほど近いモスクに行くことにした。
これも、出発前から考えていた目的の場所の一つだ。
もちろん、Kさんも一緒だ。


グーグルナビで行くと、大通りを離れて路地を案内していた。
舗装はされてはいるが波打つコンクリートの道の下町を歩いて行く。
前から自転車でやってきた少年が、


「コニチワ!」


と私達に笑顔を送り去っていった。


慌てて「こんにちは!」と去っていく少年の背中に叫ぶ。
「よくオレたちが日本人ってわかったなあ」、とKさんと顔を見合わせた。
しばらく歩くと、巨大なモスク、しかし足場が建てられ明らかに建造中のモスクが視界に入ってきた。

もしかしてあれか?
後ろからやってき来たおっちゃん二人が私達に聞く。


「モスクに行きたいのか?」


うなづくと、
「それならこっちだ。付いて来い。」


おお、助かる。
結局、大通りへ出ることに。


大通りへ出ると、あちらこちらから男性たちが歩いてきて、モスク方面へと向かう。
どうやら、おっちゃんたちも向かっているようだ。


巨大なモスクは現在建築中で、すぐ隣りに別のモスクがあった。


今日は金曜日で、イスラム教ではお祈りをする日であった。そのためお昼のお祈りの時間に合わせて人々が集まってきているようだった。

「よければ入っていけ。イスラム教は、だれでもウェルカムだ。」


おっちゃんたちはそう言ってモスクの中へと消えていったが、しばしKさんと二人、躊躇して入り口前で見学。


「本当に入っていいのかな?」とKさん。


そういえば以前、インドネシアのジャワ島横断をした時に現地の友人に確認してモスクに入らせてもらってお祈りを見学させてもらったことがある。特に誰も私に何か言ってくることはなかった。


 それをKさん伝えると、入ろう、ということになり、一応、門の前の警備員?警察?に聞くと入っていい、と言う。



それでは、と私達二人は、それでも遠慮がちに恐る恐る門をくぐり、人の波に乗る。


入り口前の人に、「靴は脱いで、そこに入れてくれ」と言われ、並んでいる通りに並べる。


中は体育館ほどの広さでコの字型に作られていて、つなぎ目が感じられないほど大きな絨毯が敷き詰められていた。


すでに何十人、何百人もの人々が点々と座っていて、日本人のように後ろから座る、端っこに座るなどというシャイ文化は存在せず、多くの人が中央や前のほうに場所を取っていた。



私達日本生まれ日本育ちのネイティブシャイ文化人は、やはり控えめに後ろのほう、端っこのほうへ座る。


しばらく動画を撮ったり(インスタにあげています)、写真を撮ったりしていたが、人々は次から次へとやって来ては座り、まだまだお祈りが始まる気配はない。



そこへ、どこからかおじいさんがやって来て「もっと前に座ったほうがいい。こっちへ来い」と言う。
招かれるまま、私達は立ち上がっておじいさんに着いていく。と、そこはコの字型の、本当に中央で、完全にお祈りに参加する、いや、列の一部であった。

待てよ・・・。

ここでもしお祈りが始まってしまったら、イスラム教徒ではない我々は礼儀もマナーも動きもお祈りの仕方も知らず、ただただ皆さんに囲まれているだけになってしまう。


むしろ、お祈りが始まる前に出たほうがいいんじゃないか、としばしKさんと相談し、出られるうちに出ることにした。


玄関の靴も、次々とやってくる人で、もうどれがどれだが分からなくなっていた。


幸い、日本人が履くような?ナイキのシューズは私達だけであり、すぐに発見して門の外へと出る。


週の一度、金曜日のお祈りの日。男性だけがモスクへ集まり、礼拝を行うイスラム教。


いつか、見様見真似でも礼拝を体験してみよう。



ミャンマーの仏教聖地、シュエダゴン・パゴダを訪れた時、参拝者に混ざってお祈りをした時の心の軽さ、清々しさはまだ覚えている。


祈りは、決して深い宗教行為などではなく、どの宗教であろうと生きる人間にとって必要な行為なのだ。







おかやんの「とりあえず何でもひとりでやってみる」ブログ。

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