彼女はこのパリの旅を日本の旅行会社で全て手配してもらったようで、札幌から成田、成田からパリの航空券、おまけにホテルの予約、それにこのシャルル・ド・ゴール空港からそのホテルまでも送迎付きとのことだった。
「ホテルはどのあたりを取ったんですか?」
何気なく聞いたその質問から彼女の性格や旅の危険性を彼は気付くことになる。
「あの、よくワカラナイんです。」
彼女が纏っている緊張感のない空気、それに、バッグのチャックが壊れている、と聞いたあたりからこの人は海外を一人旅をして大丈夫だろうかと、その危うさを谷川は感じ取っていた。
「よく分からないって、自分のホテルがどこかが?」
「・・・はい、全部頼んだので。」
そっかあ、と放っておけばそれで済んだ話なのに、どうしてだろう、気にかけてあげたくなるのはおもてなし文化の日本人の血か、彼の性格か、それとも相手が女性だからか。
彼は大学生の頃は国内外のボランティアに率先して参加してきたタイプだ。困っていそうな人物には、つい勝手に手助けしてしまうやっかいな性格とはもう幼少の頃から付き合っている。
付け加えるならば、添乗員のいる団体ツアーならともかく、海外旅行で、しかも女性ひとり旅で、予約したホテルの場所さえ分かっていないのは危険でしかない。
「何区かも分からないよね。パリと言っても広いから。 あの、じゃあ、ホテル名は?」
初対面の相手だからと意識して敬語を使っていたが、次第に迷子の子供を相手にするかのような口調になっていく。
「どこでしょう。確か、旅行の紙に書いてアリマシタ」
そう言うと、彼女はチャックの壊れた肩掛けバッグからファイルを取り出し、そこからごっそりと、散らばって落ちてしまいそうなほど手のひらにプリントを広げた。
「この中にあると思いマス。」
谷川がそれらを手にとってめくって見ると、ナントカ旅行、札幌支店という旅行会社の名前の入った紙が出てきた。旅程が記載されているので、見てみるとホテル名も当たり前だがちゃんとある。
「ありますよ、ほら」
「ありましたね」
その返事からは、知らなかった、というより興味がないことがうかがえる。
「ホテル、サン・ラザールか。あれ?もしかするとオレのホテルの近くかもしれない。このサン・ラザールって地名ですね。地下鉄の駅の名前にもなってる。だとすると歩いて10分か15分か」
彼女はやはり「あの、ワカリマセン」と言って苦笑いなので、彼は「地球の歩き方」を取り出して地図を広げた。
「えっと、ここがオレのホテルで、地下鉄のサン・ラザール駅がここ。近いですね。」
「それなら、ワタシの迎えの車に一緒に乗っていきませんか? もしよければ夕飯を一緒に。来たばかりで不安で」
彼女がそう言ったところでようやくターンテーブルが動き出し、乗客たちが我先にと自分の荷物が出てこないか前に詰め寄った。
忘れていたわけではなかったけれど、谷川はスーツケースを受け取った後、空港バス乗り場へ行き、「ロワシーバス」というパリ市内直通バスに乗る予定だった。
フランスの券売機をちゃんと操作できるのか、だとか、パリ市内に着いたら地下鉄へ行って、またまた券売機を操作して切符を買って乗り継げるのか、だとか、スリの多いパリで現金をそんなとこで出して大丈夫か、とかそんなことを旅の前から考え、シュミレーションし、確認してきた。
けれど、ひとり旅での貴重な出会いをわざわざ棒に振る必要はないし、バス代11ユーロや地下鉄代が浮かせられる。
成田では3万円しかユーロに替えていない。男一人旅だ、それで十分だろうと考えた。
けれどもたった210ユーロ程度にしかならなかった。なにせ1ユーロ139円もするのだ。これから5泊の素泊まりをなんとかそれだけで過ごそうと計画している彼にとっては初日の15ユーロ程の削減は大きい。
それに時差マイナス8時間のパリは現在夕方4時半。ホテルにチェクインした後に一緒に夕飯ならば時間もちょうどいい。着いたばかりで不安なのはお互い様だ。
「ぜひお願いしたいですが、お迎えの車、一緒に乗って大丈夫ですか?予約の時の人数が決まっていると思うのですが」
「どうだろう。大丈夫だと思います。」
自分が泊まるホテルの名前も場所も調べていない彼女の、大丈夫、はあまり信用できなそうだと谷川も気付き始めてはいる。
「じゃあ、とにかく行ってみてドライバーと話してみましょう。もしダメならオレはバスで向かいます。どのみちホテルは近いので待ち合わせできますよ。」
もう一度、送迎ドライバーとの待ち合わせ場所が間違いないか確認するために旅程を見ると、お名前、の所に何やらカタカナが書いてある。
「これは、名前ですか?」
「そうです。ヤン ミヒャンと言います。ヨロシク オネガイ シマス」 そこだけずいぶん言いづらそうだった。長い単語だ、そうなるのも分かる。 そういえば、彼も英語発音を学び始めた頃、誕生日であるsixthの語尾のthの発音がうまくできなくて、アメリカ人の女の子に微笑まれたことがあった。
ミヒャンの、頑張って話そうとしている、伝えようとしているその姿勢が整った顔立ちを子供のように幼く見せ、彼は親近感を覚えたのだった。
到着ホールへと向かうと、客の名前の書かれたボードを持ったガイドやらドライバーやら10数名の視線が一気のこちらへ向けられる。
その中に「ヤン ミヒャン」とローマ字で書かれたボードを持つ1人の男性を見つけた。
年齢は40代後半といったところか。フランスの白人というよりも、少し色黒く、顔立ちも中東が入っているような気がする。
移民出身なのかもしれない。話し方は腰が低く、日本人的であった。
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