彼女は日本語を流暢に話すことができるようだった。
32番の荷物受け取り場所までは距離があり、それは彼と彼女がお互いの状況を話し合うに十分な時間を与えてくれた。
彼女の国籍は韓国。今は北海道の札幌で働いて住んでいるとのこと。一人旅なのデス、と彼女は仄かに苦笑いをした。女性なのにすごいですね、と返した。みんながワタシを心配シマシタ、と彼女は恥ずかしそうに笑った。
「みんな、って?」
「昨日、ハッピーニューイヤーをするために友達とお酒を飲みに行きました。その時、初めてパリへいくことを言いました。みんなびっくりしてました。ニューイヤーになって2時ころに帰って、少しだけ寝て、朝早くに札幌から、成田空港へやって来ました。それからパリへ」
「じゃあ、早朝に飛行機を乗り継いで来たんですね。大変でしたね。」
「ハイ。札幌の飛行機は8時くらいデス。成田に着いた時間は、10時00分くらいデス。すぐにインターナショナルへ行きました。ニューイヤーから、慌ててしまいました。」
一般的に、国際線に乗るには空港到着2時間前が良いとされている。正月のような混雑期はなおさらだ。なのに、パリ行き1時間前に札幌から到着。もしそれが遅れてしまえばアウトの可能性もあった。
「慌てていて、荷物カウンターの方に韓国語で「急いでクダサイ!」って大声で言ってしまいました。」
話すほどに、先程までマネキンのようだった彼女の表情の冷たさは消えていく。苦笑いをする口角がキュッと上がり、愛らしささえ感じる。
「ちなみに韓国語で、急いで、って何って言ったんですか?」
「ソドゥルロ ジュセヨ!と言います。」
確かにテレビや映画で聞いたことのある、ハングル特有の音だった。なぜだろう、英語よりも聞いていて心地良い、と谷川は思った。
「ソドゥ・・・ジュ・・・?」
彼が真似しようとすると、彼女が笑って「ノーノー」と言う。
「あの、えっと、ニューイヤーは日本語で何デシタ?」
「ああ、えっと、新年ですね。シンネン」
「そうです、シンネン。シンネン明けましておめでとうございます」
唐突にそう言われ、加えて、イントネーションがやはり日本と違うものだから彼は一瞬彼女が何を言ったか判別できなかった。
「明けましておめでとうございます。」
新年か。
旅に元旦出発の便を予定していると、年末、特に大晦日は慌ただしく用意し、年越しというイベントに参加もせず寝て、早朝になんとか起きて群馬から成田に向かわなければならず、とても「新年」を悠長に感じられる時間がない。
まだ眠気が残るまま成田に着いて一通りの手続きをした後、空港内の色んな場所で行われているイベント、例えば獅子舞や日本酒の振る舞いを見て、あるいは正月のBGMを耳にして「ああ、もう元旦なのか」とそこで初めてぼんやり感じる程度だった。
谷川にとってはその程度の正月と化していた1月1日。
初めて交わした「明けましておめでとう」の挨拶が、パリの空港で会ったばかりの名前も知らない韓国人の女性。
彼よりも日本文化をわきまえている。
英語を学び始めて、海外に興味を持って以来、海外に住みたいと彼はずっと思ってきた。けれども、色んなものを投げ出して海外へ移り住む勇気も覚悟もなかった。
「なんで、日本に住んでいるんですか?」
日本に住み、日本語を話し、そこからパリへも来ている彼女。彼にはできないことをやってのけている。
「最初、北海道の大学に留学していました。日本が好きになったので、韓国の大学を卒業してからまた来ました。日本はとても素敵な国です。ワタシ、お財布を落としたことがあります。でも戻ってきました。」
実は彼は、財布を落としたことが過去に2回もあった。そしてその2回とも戻ってきた試しはない。2回目の時なんて、明らかに彼の財布と分かるブランド品のそれが、リサイクルショップで売られているのを発見したこともあった。あの悔しさの衝撃といったらない。それのどこか素敵な国なんだ、とは谷川は言い出せない。外国人にしか優しさを見せない日本の文化が彼は嫌いだった。
「パリはスリが多いと聞きました。なので、コートのなかに隠せる大きさのバッグを買いました。」
彼女がコートをチラリと開く。
腰のあたりにショルダーバッグが隠されていた。
「でもパリに来る前にチャックが壊れてしまいました。」
見ると、ジッパーがなく、完全にチャックが開きっぱなしになってしまう状態だ。
「これは、意味がないデスネ。」
最初に彼女を見た時の、無表情に近い、くすんだ微笑みを忘れさせるほど、彼女はよく話し、声を出してよく笑う女性であった。
辿り着いた32番のターンテーブルはまだ回転が始まっていなかった。同じ便でやってきた乗客達がゾロゾロとその周りを取り囲み、それが動きだすのを今か今かと待っている。
「動きませんネ」 と彼女が赤い口を尖らせてつぶやいた。
「そうですね」 と彼もつぶやいた。
そういえば韓国の人と話したのは初めてかもしれない、と彼は静止しているゴム製のキャタピラをぼんやり眺めながら思った。
東南アジアを旅して回っても、出会って直接話した記憶はなかった。
けれど日本では映画やドラマ、歌番組、あるいはCMで韓国人を見る機会はたくさんあって、あまりにも身近だったため、知ったような気になっていただけだった。実際にこの女性の日本語のイントネーションで国が分かってしまうほどなんだから。
つづく。
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