ドライバーに送迎車まで案内されて空港内を歩いているとミヒャンが、
「あの、水を買いたいですケド、どこで買えるか聞けますか?」
と不安そうな表情を見せた。
自販機がそこらじゅうにあるのは世界一安全な国、日本くらいなもので、当然パリの空港にはほとんど見当たらなかった。
ドライバーに聞くと、エレベーターでフロアを案内してくれ、さらにそれが硬貨しか使えない自販機だったため、彼がミヒャンの5ユーロ札を硬貨に崩してくれた。
2人はそこで初めてパリの物価というものを知るわけになったのだけど、空港とはいえコーラのペットボトルが3.3ユーロ。つまり1ユーロ139円×3.3=一本459円。 バカ高い物価が判明する。
空港の外へ出て、すぐ目の前の駐車場。ドライバーの車は、フランス国産ルノーの黒いセダン。日本で見ない車なので車種は分からないが、内装は高級車のそれであった。2人が後部座席に乗り込むと、車はいざパリへと向けて走り出す。
ミヒャンが先程自販機で買った水を開け、飲み始めた。勢い余り、口元から零れた水が雫となって首へと滴り落ちた。
「はあ。ワタシ、とても喉がかわいていました。」
無理もない。14時間もの長時間のフライトを経て到着し、暖房の効いた空港内で、右も左も分からない異国でドライバーの車に辿り着くまで一連の事をしてきた。
「タニガワさんも飲みますか?」
ついさっき会ったばかりの初対面の女性に、飲みかけのペットボトルを渡され、谷川は複雑な気持ちになった。そういうのは気にしない女性なのか。断ったほうがいいのか。しかし水を見た途端に喉がカラカラだと気付く。初めての異国に着いたばかりで、それを意識する間もなかったようだ。
「じゃあ、一口」
胃に流れ込む水の冷たさが、到着したばかりの火照った体と思考を幾分和らげてくれた。
「飲みたくなったら、いつでも飲んでください」
そう言ってミヒャンはその水を彼との間に置いた。
「ありがとう。あ、そうだ。ありがとう、は韓国語で何ていうの?」
ミヒョンはすでに彼の意図を分かってくれたようで、フフフと笑ってくれる。
「コマウォヨ」
「コマウォヨ? えっと、お水、コマウォヨ」
「これは仲の良い人にだけ使う言葉です。丁寧な言い方は、カムサハムニダ」
「それ、聞いたことある。」
「日本人、その韓国語だけ知ってますネ」
「ごめんなさい、は?」
「ミアネヨ、です」
「ミアネヨ?」
「そうです。発音、上手ですね。」
パリへ来て、谷川は何故かハングルの挨拶を学んでいるのが内心おかしかった。
いつしか外は雨が降り始めていた。路面が黒光りしている。ドライバーがワイパーの速度を早めた。
「天気予報によると、しばらくパリは雨が降るみたいデスヨ。」
ミヒャンが、丸い垂れ目を細くさせ、窓の外の暗色の空を見つめながらそう呟いた。谷川は折りたたみ傘を忘れたことに気付く。彼は入念に旅の準備をしてきたつもりだったが、迂闊にも天気には気が回っていなかった。
空港からパリ市内へと向かう高速道路は4車線もある大きな道路で、しばらくは周囲に何も見えず、まだ日本の田舎だと言われれば信じ難いものではなかったが、それでも30分も走るとパリの、歴史的外観を保った煉瓦作りの街並みが窓の外の遠くの景色に流れ始め、それを目にしたミヒャンが韓国語で何か歓喜の声を上げた。
ドライバーが「あと15分くらいです。」と伝えてきた。ほどなく街中へと入り、正面に、なにやらモニュメントのような、石台に乗っている銅像が視界に入った。
そこのロータリーをぐるりと回る。通りに連なるカフェやレストラン、そしてそこに集うパリジャンやパリジェンヌたちに笑顔が溢れていた。
「もう着きます。」
車が停まり、外を見ると、確かに「サン・ラザール ホテル」と看板が出ている。なんとかミヒャンのホテルまでは無事に着くことができたようだ。
小雨が降っていたが、ドライバーはトランクから二人のスーツケースをきちんと出してくれ、
「では、また6日の朝に迎えにきます。」
と英語でミヒャンに告げた。
「あの人、何て言いマシタ?」
と、彼女は谷川の顔を覗き込む。
「また6日の朝に迎えに来るってさ。」
そう伝えながら、ミヒャンの帰国日が自分と同じだと谷川は初めて知った。朝に迎えに来るということはお昼前後の便。彼は夕方の便。さすがに帰国便まで同じではないようで、少なくともこの悪戯的な出会いがパリの旅の最後へ続くことはないのだと半ば安堵した。
「ワタシ、帰るのは6日ですネ。いつなのか、忘れていました。5回寝るということは覚えています。タニガワさんはいつまでパリにイマスカ?」
「同じ日です。」
「え?」
「6日の、夕方の便に乗る予定」
「はあ、そうですか。ワタシは何時か忘れてしまいました。」
「朝に迎えに来るんだから、きっとお昼くらいだと思うよ。後でちゃんと確認するんだよ。」
「お昼くらいですか。それなら、ワタシを見送ってくださいね。」
彼女の笑い方は決まって、フフフという含み笑いだった。言いたいことを最後まで言わず、そこに意味を残しておく物言いだった。
年配ドライバーが小雨で濡れる頭を両手で覆いながら年の割に愛らしい笑顔と
「オルボワ(さよなら)」
という言葉を残して雨で濡れて光る石畳の道路をルノーのセダンで走り去っていった。
ミヒャンは、谷川が持ってきた1~2泊用の小さなスーツケースの2倍以上ある、一人旅にはとても大き過ぎるそれを両手で引きずるように運びだした。
「こんなに何を持ってきたの?」
「中身は、半分しか入っていません。何か料理の道具を買って詰めて帰ろうと思っています。それと、フランスは塩が有名と聞いています。」
「料理道具に塩か。それは重たくなるね」
フロントのおじさんが、部屋番号やら朝食の時間やらチェックアウトの時間やらを説明していたが、ミヒャンはそんなのまったく聞かずに、提示したパスポートやらお金やらをバッグに詰め込もうとゴソゴソしている。チェックイン(ほとんど谷川がやりとりをした)を済ませ、エレベーターで3階へ向かう。2人が入り、それに彼女のデカいスーツケースが入ると身動きが取れない狭さ。
「33号室だからね」
狭いエレベーター内でそんな会話をし、3階に到着。
廊下の一番端の部屋だった。中に入るといきなり目の前がベッド。6畳ほどの、おしゃれな街、パリとは思えないような、「普通」の部屋だったけれど、昼間はひたすら観光に出てしまうような1人旅には十分だろう。
ミヒャンは僅かなスペースに大きなスーツケースを広げ、何やらガサゴソと探し始めた。
女子のスーツケースの中身は見ないほうがいいと察して、彼は窓辺へ行き、カーテンを開けて外を見てみた。
ずいぶんな広さの中庭がある。しかしどうやらこのホテルのそれではないようだった。
「これ、使えませんか?」
ミヒャンの声に振り返ってみると、彼女がスーツケースから取り出したドライヤーを手にしていた。
「それ、日本のだよね。フランスは電圧が違うからプラグ変えて差し込んでも壊れてしまうよ」
「そうですか。ここのホテル、ドライヤーありません。ダカラ、持ってきました。ワタシ、髪乾かせません。」
彼女が残念そうに言うので、洗面所を探してみたがどこにもない。
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