巴里組曲②


彼は時々、登山という旅をする。  


人気のある山よりも、誰もいない、名も知られていないような山に入り、そこの土や木々や空気などの雰囲気を噛みしめるように歩き、ひっそりと登山をするのが好きだ。


時折、耳鳴りがするほどの静寂の中で立止まって木々の隙間から空を見上げてみると、あまりにも広大な空と小さすぎる自分の存在とが混在して、世界にはもう自分しか生き残っていないのではないかというような掴みどころのない寂しさと、そんな世界でもなんとか生きなければという使命感が同時に訪れる。そんな空想を味わうのが彼は好きだった。



 そういった心境と状況下で偶然出会う登山者には言葉を交わす前から無条件で親しみを感じ、どこから来たのか、どこへ行くのかなどと話が始まれば、同じ「生き残った者」として仲間意識を感じずにはいられない。  



異国の旅もまた然り。  

訪れた場所で、1つの物語と出会う。

まるで自分を愛するかのように、その物語を愛おしく思い、一緒に連れて帰る。  


今回は「谷川」という青年に旅をさせることにします。   



〜 




 シャルル・ド・ゴール空港へ降りたってもまだ「あの有名なパリ」へ来たという大それた実感は沸いてこなかった。


インドや東南アジアの発展途上国ばかりを好んで旅してきたせいか、熱帯特有のムッとして全身に纏わりつく熱風やそこで這いつくばるように生きる下町の人間たちの臭気を感じてこそ異国なのだ、という偏った考えが彼は思考に根付いてしまっていて、日本と同じ気温や服装でいられる真冬のパリに違和感が否めない。  


また、機内ではわざわざ足を伸ばしてゆったり過ごせる座席で過ごしてきたのはいいが、ちょうど窓がない位置のため、離陸や着陸時の景色が見られず移動しているという感覚があまりなかった。


よって、谷川は14時間もの長い時間を密室の中でただただ座っていただけのような気がして、異国の地に着いた興奮の波はまだ訪れず、緩やかなものだった。  


実感するよりも先に、バス乗り場がちゃんと見つけられるのか、フランス語の券売機をちゃんと操作できるのか、スリには合わないか、などという次の行動への懸念のほうが大きく目の前に立ちはだかっていた。


それでもそんな心配事はひとりで異国の地へ降り立てば毎度のこと。現地に着いてしまえば結局のところ不安というのは新たな旅の高鳴る気持ちへと変化していくと知っているのだけれど。 


ともあれ、入国審査も列を成すことなくスムーズで、窓口にただパスポートを差し出して入国スタンプをもらうだけの簡単なやりとりを経て、矢印表示に沿って荷物受け取り場所へと長い通路を歩く。


途中、彼は自分の便の荷物は何番のターンテーブルかと頭上の液晶モニターを立ち止まって見上げた。多くの到着便の中からエールフランス航空275便を探していると、隣りにも同じモニターを見上げて凝視している女性がいることに、ふと、気付いた。 


長時間のフライトの疲れなのか、あるいは時差の眠気なのか、女性のぼんやりとしたその目は本当に焦点が合っているのか疑わしいほど虚ろで、まるでどこか別の遠くを見つめているよう。低血圧かのような異質な肌の白さを持ちながら、それとは対称的な、頬から首にかけて弧を描いて垂れる長い黒髪が瑞々しく光り、まるで京都の舞妓を思わせるほど赤く塗られた口元がそれらの異なる色彩を調和させていた。


鼻はツンとして丸みを帯び、欧米人では決して表現できない、アジアの女性が持つ麗しさをその表情に見たような気がした。 すると、その虚ろな黒目がこちらにとろけるようにゆるりと垂れ、彼女を見つめたまま凝固して動けない谷川の視線を捕らえる。 



「32番、、、デスネ」 



真っ赤な唇がそう動いたような気がする。映像を見ているかのような非現実の中に谷川青年はいた。


たった数秒前のその言葉は、すでに遠い記憶かのようで、思い出そうと努めなければ脳裏からあっという間に消えてしまいそうだった。  



「そう、みたいですね」 



慌ててそう返して、もう一度モニターで確認する。確かに275便の欄には32と表示されていた。 女性は日本人ではない。イントネーションからもそれは明白だった。


女性は谷川の返事に対し、赤い口元に笑みを浮かべて答えた。表情に変化が表れ、彼女は視界の中で急速に人間味を帯び始める。モノクロ映像から抜き出た様にそこに存在していた。 


「フランスは初めてデスカ?」 


彼女に質問され、会話が続くことに谷川は驚く。映像の人物に話しかけられたような錯覚から瞬時に抜け出せず、狐につままれたような気分に落ちていた。


 「ええ。ヨーロッパさえ初めてで。」


 「ワタシもデス。だから、よく文字がワカリマセン」 


はにかむその表情を見て、緊張していた気持ちが和む。


谷川が搭乗したエールフランス便は、おそらく日本で遊んで年越しして、すぐ元旦に帰国すると思われるフランス人ばかりで、彼の座席は体のデカい彼らに14時間もの間、負けオセロのように囲まれていた。


よって、14時間ぶりに見る、同じアジア人の見慣れた笑顔は、萎縮していた身体を弛緩させるに十分過ぎるほどだった。 


つづく。

おかやんの「とりあえず何でもひとりでやってみる」ブログ。

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