翌日、ジャカルタの街中を歩いてみたが月曜ということもあり、ビルの隙間を行く大通りを歩くのはほとんどがスーツを着たビジネスマンだった。ラフな格好で歩く自分が恥ずかしくなるほど。デパートもガラガラ。博物館も休み。
そこで半ば仕方なく、日本人駐在員に人気があるというフットマッサージ店へ行って旅の疲れを癒やし、次に高層ビルの一階にあったマックで遅めのお昼を摂った。
その後思い立って、夜の帰国便の前にもう一度、あの路地へ向かってみることにした。昨夜の皆にもう一度会いたいと思った。
午後4時過ぎ。子どもたちはまだ学校から戻っていなかったが、お母さん方と幼児たちはのんびりと時間を過ごしていた。今度は誰も、突然、再びやってきたオレを見ても驚きはせず、ベンチに腰掛けたオレに冷たい飲み物を自然と出してくれた。
「今日の夜に日本に帰るんです。」
グーグルの音声翻訳でそう伝えた。
そう言ってオレはベンチでしばらく居させてもらうことにした。
昨日は気分が高揚していて冷静に周囲を把握することができなかったが、こうして見るとこの路地は鉄道の線路のたった3メートルほど下の場所で、日当たりなどほとんどない。
ジャカルタの下町とでも言っておけばいいのか、住居と住居が密集し、その間の路地を入るだけで昼間でも暗い。
ギリギリまで待っておばさんが連絡を取ってくれたようだが、やはりオレが行かなければならない時間に帰ってくるのは無理な様子であった。それが分かると今度は皆がオレの飛行機の時間を心配し始めた。時間に余裕であれば安い空港バスで向かう予定だったが、まず宿に戻って預けているバックパックを受け取らなければならいし、そもそもバスには時刻表などなく、乗り場へ行ってもいつ出発かも分からない。
渋滞したらアウトだ。そのため予定を切り替え、事前に調べてあった空港鉄道に乗ることにした。最近完成した近代的乗り物だ。ここから駅は離れてはいるが時刻表通り定刻運行しているため、到着時間が読める。その駅までバイクタクシーを捕まえて行くことにした。
すると一人のおばさんが、
「私の息子に送らせるわ。」
と言う。
その息子ウィンビーとも何度か話していたので知っていた。先程仕事から帰ってきたのも見ている。20歳くらいの青年だ。おばさんが呼びに行き、彼がやってきた。
「OK」
そう言う彼の爽やかな笑顔に甘えることにし、渡されたヘルメットを被って彼のバイクの後ろにまたがる。
「さよなら。ありがとう。」
知っているインドネシア語を絞り出して手を振った。
何か分からぬが、そこにいる皆も何か言ってオレに伝えようとしてくれた。
この際、「元気でね、また来てね。」と訳してしまおう。
「また来るよ。みんなも元気で!」
こんな時は日本語で叫ぶに限る。
きっとそれも伝わってくれたと思う。徐々に距離が離れていく皆の姿を目に焼き付ける。
しかしフッと前を向いた瞬間には、このお別れの切なさはいったん感情の箱へとしまう。まだ整理などできていないこの雑多な記憶たちと一緒にそこへ押し込み、気持ちを帰国へとシフトチェンジさせなければならない。出発時刻2時間前には空港へ。これは世間一般の余裕を持った行動であるし、オレもそうしてきた。
バイクは狭い路地を抜け、大通りへ出る。まずは途中にある宿へ寄ってもらう。
暮れ始めた、そしてネオンの灯り始めたジャカルタのメイン通りをオレたちは走っていった。渋滞が始まってはいたが、彼が上手く車の列をかわして進んでいってくれる。
この調子なら早く着けそうだ。宿に着いて急いでバックパックを受け取る。
「日本に帰るのね」
顔なじみになった受付のお姉さんが笑顔で対応してくれた。空港までどのように帰るのかまで心配してくれ、礼を言ってそこを後にした。
信号待ちでウィンビーが、英語で話しかけてきてくれた。片言ではあるが、コミュニケーションを取ろうとしてくれることが嬉しい。その柔らかな物言いに、無事に、安全に、駅に送り届けようとしてくれる誠意が伝わってくる。
信号が青になって車やバイクが走り出すと埃、排気ガスが凄まじく巻き上がり、ネオンの光がその一部を照らす。オレは口元を塞ぎながらも、それらがまるでステージの煙幕のようにも思え、そこを突進していく様に人生という舞台を今まさに生きている実感を覚えた。
ほとんど何の心配もなく生活していける母国日本。しかし、日々の生活をただこなしていく時間の連続は、時に自身が透明人間かのような、周囲から見えない無意味な存在なのかと感じてしまうことが時としてあるような気がしていた。
ここ、異国の地は旅の最初から終わりまで全神経を研ぎ澄まし、常に自分と眼の前の相手に対峙することで自分自身がこの人生の主人公なのだとしっかりと強く伝えてくれた。
15分程度で駅に到着した。
もしアプリでバイタクを呼べばここまでおそらく金額は200円くらいだろうけれど、突然の頼みを聞いてくれた感謝の気持ちにとオレは1000円相当のルピアをウィンビーの手に握らせた。
彼は手のひらのそれを見て驚き、目を丸くしてセンキューと声を上げた。喜んでもらえたなら、それでオレも嬉しいのだ。時計をみると、電車がやってくる時間。悠長に別れを惜しんでいる間もなかったので彼とは写真をその場と撮ってすぐにオレは走った。
下調べでは、チケットは日本のように券売機で買うのだが乗る電車の発車10分前に締め切られてしまうのだ。ジャカルタとは思えないほどピカピカな駅構内。何故か3階に券売機があり、乗り場は2階。3階へダッシュ。券売機を操作。が、10分を切ってしまっていたため間もなくやってくる電車の切符が買えない。
焦る。
その一瞬、オレは諦めた。例えこの電車を逃してその次の電車に乗っても空港が余程混雑していない限り飛行機には間に合うだろう、と。
とその時、たまたま近くに制服を着た駅員がいる。
「次の電車には乗れませんか?」
オレの慌て様を見て、駅員さんは腕時計をちらりと見る。
と気にかけてくれるではないか。
料金が高めということと用途がほぼ空港行きだということで、この駅からの乗客は数人。乗車時間は約50分。席に座り、深く息を吐いた。
ジャカルタの喧騒から離れ、ただ電車が線路を踏みしめていく心地よい音の中だけに身を寄せて、旅が終わりを迎えようとしている。
たった一週間だけだったというのに、鉄道や飛行機、そして宿など計画が盛りだくさんだった。大きなトラブルなく無事に終えようとしていることに心から安堵していた。 青春。甘酸っぱくて、思い出すと胸を締め付けるような記憶。 ジャワ島の旅も似たような感覚になる。
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