パリ組曲㉕ 「また、会えますか?」


「部屋のカギがありません。カードキーです。」  


ミヒャンの空港送迎車が、朝9時に来ることになっていた。


そのため、8時にはミヒャンのホテルへ行き、チェックアウトを済ませ、朝食を摂ってのんびりしよう、そう話していた矢先だった。


彼女は二日目の夜から谷川のホテルで寝ていたため、そのカードキーを使ったのは初日だけ。どこへしまったのか忘れてしまっていた。 


「バッグの中に入れたと思っていました。でもありません。」 


「もしかしたら、どこかで、落としたかな。」  


ミヒャンはベッドの上に荷物をひっくり返して探す。結局カードが入っていたのは財布の中。


 「バッグじゃなくて、お財布の中でした。」  


谷川は、ふう、と安堵のため息を吐き出しつつ、そんなことだろうとは思っていた。  


谷川のホテル「Bモンマルトル」の玄関を出て、日が差し始めた石畳の通りを歩く。ミヒャンとここを歩く、パリ最後の時間。  


パリに到着した日にここを通った時のことは覚えている。二日目の朝、彼女にドライヤーを届けに行った時だった。あの時から、よく慌てる子だな、と彼は思っていたが、その微笑ましい印象は今も変わらない。


そんな彼女に、自分の世話好きな性格をくすぐられた事は否めず、彼女の側から彼は離れられなくなっていった。  


昨夜、月が出ていたためカーテンを開け、その光が差し込む部屋で、二人はベッドに寝ながらお互いの表情を見つめ合っていた。 


「見送りは、ホテル前で、いいです。」  


ミヒャンの口がゆくりと動いた。明日の、空港行きのことだった。 


閑静な路地を入っていった場所にあるホテルは、物音一つしない静かな空気で張り詰め、満ちている。小声で話していてもお互いの声がまるでここが舞台かのように室内に響く。 


「ワタシはタニガワさんと会えて本当に良かったと、思ってイマス。」  


そんな言葉を聞かなければならない日がもう来たのだと、谷川は時の流れの早さを恨んだ。だとしても一週間程度の旅行とは思えないほど、長く長い期間のようにも感じられた。 


「1人でパリへ来たのに、1人ではきっとエッフェル塔には行けませんでした。お父さんやお母さんのことをここで考える時、タニガワさんがいてくれてワタシはとても助かりました。アリガトウゴザイマシタ。」  


彼はミヒャンの、頬から首、首からから肩に流れる黒髪のラインを視線でなぞりながらそれを聞いていた。  


自分と会わなければ、ミヒャンはどうしていたろうか。パリでスリに合ったり、道に迷ったり、地下鉄に乗れなかったり、そんな風に困ることも多かっただろうか。  自分と会わなくても彼女は、それくらい出来たのではないだろうか。仮に困ったとしても、彼女の明るい性格でなんとかしたのではないだろうか。  



結局のところ、放っておけなかったからではなく、自分が彼女の側にいたいから、だからこうしてずっと時間を共に過ごしてきたのだ、と彼ははっきりと気づき認めていた。  


だからこそ谷川は最初、自分も一緒に空港へ行くと告げたが、谷川の便がその5時間後である事を理由にミヒャンはそこに首を縦に振らなかった。


5時間くらい空港で時間を潰せるから、と谷川は押して伝えたがミヒャンはその5時間を、谷川がパリで一人で過ごす時間にして欲しい、と言う。


 「タニガワさんは、ずっとワタシといてくれました。最後の日はワタシのためではなく、少しでも自分のための時間をパリで過ごしてほしいです。」  


ベッドの中で月の光に照らされたミヒャンの瞳が、宝石のような輝きを放っている。白い肌が薄っすら青く色を変え、現実ではないような美しさであった。 


「一人の時間なんて、今さらもう、要らないよ。」


 「いいえ、タニガワさんには必要です。一人旅でパリに来たのですから、一人旅をする時間が必要です。ずっと、ずっとワタシのために時間を使ってくれました。お願いです。最後は、タニガワさんの時間を作りたいのです。」    

たった5時間、一人で何をすればいいのか。

谷川はそこまで口から出かけたが、ミヒャンが口元に笑みを携えながらも真剣な表情で話したものだから、彼はその言葉を飲み込む他なかった。彼女が望むなら、それも別に悪いことではない。一人旅の続きをするだけだ。そう自らに思い込ませることに努めなければならなかった。 


「分かった。ありがとう。そうしてみるよ。少しだけ一人旅を、ね」  


ミヒャンが去った後のパリの5時間を、一人で過ごす。一体何をすればいいのか。彼は皆目検討がつかなかった。     



ホテル サンラザール。たった5日前にこのホテルへ来たというのに、ずいぶん久しい気がする。玄関を入ると、レセプションには同じおじさんが座っていて、チェックアウトの客の対応をしていた。  


二人入ると身動きの取れないエレベーターに乗り、5日ぶりにミヒャンの部屋へ。  ドアを開けると、6畳ほどしかない部屋には大きなベッドとミヒャンの大きなスーツケースがひとつ、ポツンと置いてあるだけ。ベッドシーツも綺麗なままだった。


「ここでは、イッカイだけしか寝ませんデシタ。」 

「朝食は何度も食べたのにね。」 

「すぐ準備します。ちょっと待っていてください。」 

彼女はスーツケースを開けて、持ってきた荷物と中の荷物の整理を始める。


「ゆっくりでいいからね。」  


谷川は窓辺に立って外を眺めた。  


この部屋にはもう二度と来ることはないだろうな。窓から見える中庭の景色を見ながら思った。彼は、旅先の宿を去る時には必ずそう思うようにしている。二度と来ることはない。そういった寂しさから旅情を感じていたいのだ。同じ場所には留まらない。次の目的地へ向かう。そういった決意の現れでもあった。  


ミヒャンという女性と過ごしたパリでの7日間も、二度と経験できることではない。  


毎日という日は、毎日やって来るのに、一生に一度きりしか経験できない日もある。そして、それが一生に一度かどうかは、後になってようやく知ることになる。  


どうしてもっとあの時こうしておかなかったのか。人は悔やむこともある。  


レセプションにミヒャンのスーツケースを置き、いつもと同じように地下1階の朝食会場へ。黒人女性が、白い歯を見せて待っていた。


 「ボンジュー」  

少し太い声がその日も二人を迎え入れた。    

白人の客たちが静かに語り合いながらパンを頬張っていた。  

二人はほとんど黙って食べた。視線が時折合っては微笑む。それだけで十分だった。  


ミヒャンの送迎車は8時50分にはホテル前に着き、来た時と同じ運転手がレセプションへやって来た。


「お二人ですか?」  


運転手は、予約人数が一人だということをやはり気にしているようだった。 


「いや、私は行きません。彼女だけです。」  


谷川がそう答えると運転手は笑顔で返事をすると、ミヒャンのスーツケースを車のトランクへと運んだ。


 「では、ワタシは、行きます。」  

今までにないような凛とした芯のある声だった。彼女なりの、帰国に対する気持ちのような気がした。


 「うん。」 


 彼は不意に感情を揺さぶられ、言葉が出なかった。 

「タニガワさん、お元気で。」

 「君も。」 

 「はい。本当にアリガトウございました。」  


今まで経験してきたような、旅先の一期一会ではないことは分かっている。 


これはもう恋愛感情なのだろう。そのように言えば、心臓を掴まれたようなこの胸の痛みの理由の説明がつく。


「また、会えますか?」  

小さな子が、母親にねだるかのような物言いだった。   



もう会えないような気がした。  今までも、旅先での出会った相手とわざわざ再会したことはない。旅先での出会いは、いわば物語。その時にしか存在し得ない。短い瞬間だからこそ輝く刹那さがある。だからもう会ってはいけないのだ。彼には、言葉にしないそんな思いが内在していた。


 「また、会いたいよ。」  

だから、彼はそう言った。いや、そう願った。 


「また会いましょう、今度は日本で。」  


そう言うなりミヒャンは彼に近寄って口づけた。彼女はその恥ずかしさを隠すようにすばやく送迎車へ行き、手を振ってから乗り込んだ。  



ミヒャンを乗せた車が動き出し、石畳の道を走り去っていく。丁字路を曲がり、見えなくなってしまうと、表現しようのない喪失感があり、彼は呆然としてしまう。ミヒャンという女性など初めからパリにはいなかった。

夢から醒め、気付いたらここに立っていた、そんな気さえする。幕が降り、舞台が終わったのだ。  たったひとりそこに取り残された彼は経験したことのない深い孤独感に襲われていた。



口唇に彼女の熱の余韻がまだ微かに感じられた。いつもの朝の街角の情景に、彼の後ろ姿が動かずじっと佇んでいた。 


おかやんの「とりあえず何でもひとりでやってみる」ブログ。

やりたい事は悩みながらなんでもやってみる。結果的に楽しんでる!また、何かに特化して書いているわけではありません。 書きたいことをごった混ぜにしてネタをブチ混んで書いていますhttps://www.instagram.com/the_unending_world/?hl=ja

0コメント

  • 1000 / 1000