SHWEDAGON PAGODA , Myanmar.
It was almost as if it were a scene from a dream.
Nothing more, nothing less than a beautiful view.
I was always searching for something.
Why people pray. Why we pray.
I kept searching the answer during this travel in Myanmar.
This feeling has possessed me for some time….
Last day...
I went into The Field of God.Yeah, that is where truth is.
What praying is .
I have been to some countries in Asia. Many people prays there in their life. But Japanese people usually doesn't pray. That's normal for us. If I have to say , that's our culture.
I feel that praying is really important for Myanmar people and people in the world.
After traveling Myanmar, I started praying in my daily life.
Praying gives me a source of peace and calmness. I'd like to keep doing that.
Thank you. I'll go to Myanmar to see you guys again !!!
裸足で、シュエダゴンパゴダ境内の大理石の冷たさを踏みしめながら、どこへ行くわけでもなく、とにかく一周しようと考えた。
ひとりになって気を抜いた途端、体が重くなる。
体はもう疲れ切っているようだった。
夜寝る以外はずっと頭を動かし続け、見るもの全てを記憶に収めようとしてきた。
頭で考えられなくても、体でその雰囲気、空気感を感じていたかった。
旅の期間に合わせて、体力と気力を全部使い切るよう、自動的に力の配分をしてきたのかもしれない。
それがきっと間もなく切れようとしている。
境内では履物を脱がなくてはいけない。けれど裸足でいられるのは良かった。ペタン、ペタンと、ひんやりと冷たい大理石の床をできるだけ力を抜いて疲れないように歩くことができる。 疲れ切っていると、思考力もガタ落ちで、ほとんど何も考えられないし、特に何を思うこともない。
でもそんな風に無駄な力が入らなかったのが良かったのかもしれない。
視界に映る全てが、
その何もかもがすんなりと、
何の隔たりもなく、
オレの中に入ってくる。
見ているだけで、心が揺さぶられている。そんな気がする。
まばたきをするたびに、何度も夢の世界へ放り込まれているような非日常的な感覚。
目の前で圧倒的な存在感で鎮座する、この不思議な「パゴダ」という仏塔をぼんやりと眺める。
それをこれまた不思議なことに大勢の人々が静かに、熱心に祈っている。
ある人は合掌をして目を瞑り、頭と手を床につけては上げる。
ある人は何か冊子を小声で読んでいる。
視界に映るだけでも、何百人もの人々がいるというのに、ここはその人々全てが裸足であり、足音というのがないため静か。そして皆、規律を守り、騒ぐことなどない。
境内には僧が読むお経がスピーカーを通して流れ、その声の低音と高音が交差する律動の響きが不思議と安心感を与えてくれた。何を言っているか分からないけれどその音の波動が気持ちを落ち着かせてくれる。母親の胎内というのも、もしかしたらこんな居心地なのかもしれないとオレは思った。
なんで、ミャンマーの人はこんなにも祈るんだろう。
典型的な日本人のオレは無神教、無宗教のようなもんで、冠婚葬祭以外に仏教を気にしたことがない。
そもそも日常的に宗教を気にしていたら、むしろ変な人にさえ見られるお国柄。
日常において、祈ること、感謝をすること、両手を合わせること、そんなことをオレがするのは初詣、あるいはパワースポットなんてシャレオツな呼び名を付けられちまった神社に観光で行った時くらいなもんで、一年に数回ってとこ。
その数回さえ、半分は「礼儀」のようなもんで「観光ついでにお参り」感は否めない。
そもそも、べつに祈らなくても済んでしまうような場所もある。
世界的に見れば、無宗教という「異常」な国、日本。
その理由の一つに、目に見えないものは信じない、という考え方があるんだと思う。
かつて、神風を信じた日本があった。
敗戦によって、「神」であった天皇は新聞上にマッカーサーと共に写り、「人間」となった。
急速な近代化、技術の進歩によって、妖怪や幽霊たちは人々の心からその姿を消した。
教育の浸透により、人々の善や悪の考えが明確になり、より論理的に考えるようになった。
大人になれば、客観的に目に見えないものは誰も信じなくなった。
日本は、先進国と成り得た教育や科学の発展によって、知らず知らずにそういった現実的な視野思考が根付いてきたのかもしれない。
森羅万象に宿る神々。
今も、自然崇拝という、山や川や森、空や太陽には神がいるんだという考えがオレたちの中に残っていた。
気象条件が揃った時にだけ見える神秘的なそれらを、時に「絶景」と呼び、崇める。
神が見える条件とは、なにも気象だけじゃない。
自分の「心の状態」もその条件に入るだろう。
ざわつく心では見えない物が、きっとある。
フラフラと、ただぼんやりとシュエダゴン・パゴダを歩きながら祈る彼らを見ていると、一つの疑問が浮かぶ。
それが、神の領域の入り口だった。
祈る、って何なんだろう。
それを知るために、オレもここで祈ってみようと思った。
カメラをしまい、祈りを捧げるたくさんの人々の中に入り、見よう見まねで同じようにやってみる。
正座をし、目を瞑り、合掌をする。
呼吸を整える。
以前、一度、座禅経験をしたことがあるのでそのへんのやり方はなんとなくできた。頭の中で楕円を描くように呼吸をし、角を作らず丸みを帯びる。
普段、改まって感謝なんて思い浮かべることは少ないけれど、旅の無事、ここまで人生を生きてこれたこと、そして両親への感謝を小さな声に出して言ってみる。
頭を床に付け、次に上げ、目を開けてみる。
脳の中に、何か心地よいものが流れていた。
僅か2、3分、そこでそうやっただけなのに、体が軽い気がした。肩の力が抜けている。 まるで、深い眠りからの心地よい目覚めのような感覚。 大海原の上で、ひとり船に乗り、穏やかな波の上に漂っているような、でも向かうべき方向へ何かが押してくれている。そんな気さえする。
内面の何が変わったとはいえないけど、外見で例えるなら ・・・
これが、
↓
こうなった感じ。
あるいは、その気分を表現するなら、
長澤まさみがカルピスのCMの現役の頃、夢の中で長澤まさみに告白され、付き合うことになったのに、その夢が覚めて、がばっと起きて、
「それが夢だと気付くまでの僅かな時間の静かな喜び」
に似ている。
「なんだ、、、夢か、、、。」
と気付くまで、僅か5秒間ほどだけ感じることのできる静寂の喜び。
目に映る夢の世界について。
昔、親友が有名女優と付き合うことになったという夢を見て、そのあまりのリアルさに目が覚めた後も夢だということに気付かず10分間本気で喜んでいたという大記録があり、
まだその「夢が覚めた後にそれが夢だと気付くまでの時間」ワールドレコードは誰にも破られていない。
なぜ10分後に気付いたかというと、テレビを付けたらその女優の電撃結婚ニュースが流れていて、何かおかしいと感づいたそうだ。
「あいつに彼女をとられたんだ・・・」
と、親友は残念そうに言った。
「いや、夢だからな・・・」
と、オレは、正論を言った。
「でも、マジでリアルだったんだよ」
「・・・・・。」
真剣な表情で話す親友を見て、オレもつい真剣に聞いてしまったが、次第に腹の底からジワジワと爆発的な笑いがこみ上げてきて、
こいつは天才的なアホなのかもしれない
と思ったことはまだ正直には告げていない。
オレを待っててくれている2人。ナンナンはノーパソで仕事をしている。
シィーはオンラインゲームをしていた。
シュエダゴン・パゴダは祈りの場所であり、市民の憩いの場でもあるとのこと。
お弁当を持ってきて、大家族がゴザを広げて食べていたりする。
暮れゆくヤンゴン。
このシュエダゴン・パゴダ。 世界遺産ではないけれど、世界遺産登録申請がされたらしい。
ミャンマー第二の世界遺産誕生になるかもしれない。
ヤンゴン国際空港に到着し、ナンナン、シィーともお別れの時が来た。
他県の友人と久しぶりに会った時でさえ、またいつ会えるのか、いや、もう会えないかもしれない、と別れを惜しむのに、国を越えていると、その大きさもひとしおだ。
「本当にありがとう。また、来るよ」
誰かに見送られて日本へ帰るというのは、実に寂しい。
勝手に来て、勝手に帰る。そんな旅なら寂しさなんて感じなくてもいいのに。
でも、別れの間際に見送られるってのもひとりの人生で何十回もあることじゃない。
経験できることは次の何かにつながるということだ。
別れの度に、心が成長し、考えの幅が広がる、別れも含めて色んなことを受け入れる心が創られていく、そんな気がする。
旅の途中、目に映る世界はどの場面も夢の中のように美しかった。
そして、そう思える自分がいた。
シュエダゴン・パゴダに集う人々の、純粋無垢な祈りの姿勢を日本へ持って帰ろう。
オレには特定の「信じる」宗教はない。日本人として、小さい頃から「親しんできた」仏教の行事やその考えに寄せているだけだ。ごく普通に「いただきます」や「ごちそうさま」と言葉に出して、両手を合わせることも常に身近にあった。 「お参り」や「お祈り」もマラソンでふと立ち寄った神社なんかで、無意識にやっていた。
オレは、何かミスをしたり、誰かに理不尽な事を言われたり、言い返したい時に我慢したり、そんな時は心穏やかじゃない。心の中がトゲトゲしくてざわついている。
誰かを責めたり、何かを責める。家族に当たることだってあるかもしれない。
そうやって自分から問題を反らすことで、なんとか自我を保っている。
そんな状態の時はもう、頭の中に嵐が来ている。頭の中に尖ったものがたくさんある。
穏やかではいられない。
それは多くの人に起こり得る普通の日常だ。
ただ、どうにもならないことでも、「祈り」で問題を反らすことができることがある。
問題というのは、主に「不安」だと思う。
例えば、子供が産まれる時、何かの試験を受ける時、合格発表を待つ時、何か試合を応援している時、誰かが病気の時、手術の時、オレたちは両手を握ったり、手を合わせたりして、心の中で願い、祈る。
些細なことでは、宝くじや人気コンサートのチケットが当たってほしいなど、日常的に祈りたくなる場面は多々ある。
そんな時、オレたちは無意識に、見えない何かに向かって祈っている。
何の宗教も信仰していないのに、実は「祈り」は身近だったことに気付かされる。
東日本大震災の時も、世界に発信するために「祈り」という英語「pray」が目についた。
原爆投下の日も、終戦記念日も、震災の日も、そこに宗教は色濃く表れていないのに「祈り」は共通だ。
祈りは、何かの対象に向けるよりもむしろ、そうすることで自分自身の心を静める効果があるんじゃないか。
オレはミャンマーの旅を終えて、時折、祈るようになった。
いや、意識的にそうするようになった。
風呂に入ってリラックスしている時や寝る前、休みの日の清々しい朝。
場所なんかどこだっていい。1日に1度、気がついた時にする。
目を閉じて、合掌した手を眉間のあたりに当てて、少し頭を下げた状態を保つ。
そのまま感謝の言葉を心の中でつぶやくこともあるし、無心、頭をからっぽにすることもある。
30秒でも、1分でもやってみると、肩と心が軽くなる。
不思議だ。とても癒やされる。
オレは今まで、とても一般的とは言えない道を歩んできたし、今もそうだ。
懸命に生きてきたし後悔もしていないけれど、どこか心が満たされずいつも自分自身に悔しさや不満を抱えてきたような気がしていた。
悔しさや不満があるから葛藤し、悩む。 不満があるから克服しようとして向上ができる。
不満の側面には、そんなメリットもあるな。
そんな風に、祈りの中で1つ考えた。
ある日、帰ってきてあわててトイレに入る。
便座に座り、一息ついた。
思いついて、ついでに1分間、合掌して祈った。
しかし、もしここでトイレのドアを開けられてしまったら、ものすごい醜態をさらすことになるだろう。
その時は真剣過ぎて考えもしなかったけれど。
アジア最後のフロンティア、ミャンマーの旅。 終わり!
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