The last frontier in Asia. Travel in Myanmar. Part ⑰ Change your world by traveling the world. 



I think when you reject change,you stop growing.


change or not. 


There's something you have to change.  


Clothing,food and housing.    There's one more thing you need is an education. 

Little children from a poor family must work in Myanmar. Of course, they can't go school and  work more than 16 hours a day. 


They say that we want to go to school and study.

Some Japanese students say that we don't want to go to school and study.

I don't know what  poverty is , what happiness is.


I think the children can change their world if they get an education. 


I think that no education is like  virus.

An education is like a specific cure for it.


I like this words " Change the world"   yeah , you can.


the world on the earth ,   the world in Japan , the world  in your life. 


yeah, you can change any world if you want.




・・・・・・・・・・・・・・・




西に傾いたヤンゴンの太陽は薄雲の中に隠れ、その日も一日の役目を終えようとしていた。  


日中に感じた暑さは和らいできた。  


この時期の気温は日本人が汗をたくさん掻くほどでもなくカラッとしたもので、日本でいうなら、よく晴れた5月の陽気に似ている。  けれどヤンゴンは、3月〜5月くらいは平気で40度越えの気温になるらしい。日本の夏も近いものはあるけれど、コンビニやらファミレスやらデパートやら涼む場所はあるし、どこでも冷たい飲み物や食べ物が手に入る。

ミャンマーはそんな環境にない。加えていうならゴミやほこりもすごい。

そんな中では、暑がりのオレはとても旅ができない。  



そのため一般的な職業の日本人の方々は、年末年始の休みにねらって来るのが一番時期的に良いんじゃないか。まあ、ガイドブックにそう書いてあるんですが。


ミャンマーへ着いた時は、軽快に背負っていたバックパックもなんだか今はズシリと感じる。

疲れもあるんだろうけど、何より、ミャンマー来てからバックパック背負って長距離歩くことなんてなかった。  

ミャンマー最後の夜は、少しだけお洒落な場所に泊まろうと思い、選択肢からゲストハウスを外した。 


「ホテル グランドユナイテッド アロンブランチ」  


ダウンタウンから離れていて、タクシーでは信号、渋滞なしの10分切るくらい。そこそこ離れている。


けれど、散策がてらオレは歩いて向かった。ダウンタウンの街を徐々に離れていくほどに高い建物がなくなり、荒れ地の空き地や、病院などの公共施設などにその風景が一変した。  


少し路地を入れば市民の家なのだろう、砂利混ざりの粗末なコンクリート作りの平屋の家々が立ち並んでいるのが見える。  


途中、きっと学校なんだろう体育館がある。窓なんてものはない。人間が入れない程度の鉄枠が窓代わり。  男子の声とドリブルの音がするので覗いてみるとバスケをやっている。

学生なんだと思うけど、ほぼ全員、上半身裸でやっていた。  


日本の体育館と同じようにしっかりとしたゴールもあり、設備は整っているようだった。ミャンマーへ来て初めて体育館なんてものを見たもんで、加えてバスケゴールやボールなど道具があること、そして施設の良さに驚いた。  ヤンゴンが大都市だということが垣間見える部分だった。  


ダウンタウンから歩くこと30分。今夜の宿がようやく見えた。  


さすがにバックパックを背負って歩き続けたもんで背中と額に汗を掻く。

ホテルの下の通りにはリヤカーの即席屋台が並び、何か飲み物が売ってそうなのでおばちゃんに聞いてみると冷たいコーラを出してくれた。  


コーラを飲みながら見上げたこのホテル、思っていたより豪華。


デカいバックパックを背負ってアディダスのジャージの上下で入るようなホテルではない・・・。

でもまあ値段も一泊4500円くらい、朝食付き。日本だったら倍の値段はする。 

  

チェックインを済ませ、14階までエレベーターで上がる。部屋に入り、バックパックを投げ出し、ひとりには大きいキングサイズのベッドにダイブした。  


あと一日。



あと一日で終わる。  



怒涛の6日間だった。  



あと一日か。 なんとか6日間無事にこなしてきた。 



本当は、一週間ってのはこんなに長いものなんだな。 

オレはベッドに顔を埋めた、その暗闇の視界の中でそんなことを思った。 

仕事している日々は、同じ景色、同じ人間関係、同じ通勤路で過ごし、物事を深く考える間もなく過ぎていくように思える。  

同じ一週間とは思えない、時間の流れ、その感覚。    


芸能界の人々はきっと、毎日の仕事が変化し、多様な人々と出会い、常に脳に刺激があることであんなに若々しくいられるのかもしれない。  

そんな毎日もありだな、羨ましい。疲れきった頭で投げやりな考えを絞り出す。  




ウトウトしかけていると、小型バックの中のケータイが鳴り始めた。  

ナンナンだろう。出なければ。  キングサイズのベッドから這い出て、ケータイを掴む。


元気そうなナンナンの声が向こう側から響いた。 


「今、ヤンゴンだよね。無事ついて良かった。ホテルどこだっけ? 夕飯3人で一緒に食べようよ。私、明日は仕事で、時間取れるか分からなくて」  


そうか。このケータイを返さないといけない。 

それにこのままだったらきっと、朝まで寝てしまっていただろう。 


「グランドユナイテッド? どっちの?」 

「アロン地区のほうだよ」 

「そっか、少し遠いね。ダウンタウンまで来れそう?」 

「大丈夫だよ。行けるよ」 

「じゃあ、シィーが先に迎え行くから。私、仕事がまだあって」 

「分かった。大変だね。ありがとう。」   


 約束の時間まであと2時間くらいは部屋で休めそうだった。  

すっかり日が暮れた頃、訪れた夜闇の中に神々しく浮かび上がるシュエダゴン・パゴダが窓の外の彼方に見えた。  







大都市の夜とはいえ、いわゆるきらびやかな夜景というのはないようだ。  

確かに街には外灯なんて明かりはないし、夜になれば店が閉まり暗くなる。あるのは露店の裸電球だけ。  


そのため、パゴダだけが異様なほどの黄金色を放ち、類稀なる夜景を此処に創っている。  


見たこともない夜だった。  

思わずオレは、パゴダにむかって合掌をした。  

6日間、旅を無事に過ごさせてもらった感謝の気持ちを込めて。  





ダウンタウンに歩いて戻っていると、シィーから電話が入った。


 「今どこ?」  


その、「今どこか」がヤンゴンに着いたばかりのオレにはまったく説明できない。


しかも目印となるような建物もない。

そんなオレにシィーは、 

「何通りか分かる?」 

と聞いてくる。  あわててオレは地図を取り出し、見てみる。通り名だけは分かった。


それと病院らしき建物が確かあったので告げる。彼は理解できたようだった。


ただオレがタクシーではなく、歩いて向かっていることは予想外だったらしく、待ち合わせ場所を変更してくれた。  



高級タワーホテル前で彼と合流する。  6日間のことを彼に話しながら、歩く。無事にまた彼に再会できたことにまずホッとした。安全大国島国日本を離れた日本人にとって、いつどこで何が起こるか分からない。  


夕飯は、オレが辛いものがダメなので、昼間食べたシャン料理を希望してみた。  

どこをどう歩いたかは分からないけど、次第にレストランが立ち並ぶ通りに出て、仕事を終えたばかりのポロシャツ制服姿のナンナンとも合流し、「どこがいいかなあ」と歩いていると、昼間入った「アウン ミンガラー ヌードルショップ」があるではないか。 


「ここ、私たちもよく来るよ。いつも混んでるの」 

「じゃあ、ここにしよう。オレ、ここのなら食べれる!」  

そう、オレは一日に何度も同じものを食べても気にならないほど食にはうとい。食えればいいのだ。よって国内旅行でも、旅行先で平気で吉野家で食えるし、そういったチェーン店で全くもって構わない。食えればいいのだ。  



結果、昼間とまったく同じ物を頼む。

ワンタンと餃子。餃子は3人で1枚。  


店内をよく見ると外国人旅行者がけっこういる。「ロンリープラネット ミャンマー」にでも載っているんだろう。「地球の歩き方」には載っていないせいか日本人の姿はない。  



店員の女の子が注文したものを持ってきた。昼間と同じ子だった。もう何時間経つのか、まだ働いているようだ。

やはりどう見ても10歳くらい。他にも何人も同じような年の女の子が忙しい店内を動き回っている。  

その子が、不意にナンナンのコップの水を零してしまい、テーブルに広がった。 その子は慌てた様子だけれど、ナンナンは冷静に、そして笑顔で、「大丈夫よ」と告げる。


その子が布巾を持ってきて皆でテーブルを拭く。  

ナンナンはミャンマー語でその子と何か話していた。  

表情から読み取るに、 「もう〜、気をつけてよね〜」 といった含み笑いで、そして女の子のほうは、 「えへへ、ごめんななさい」といった苦笑いだった。  


そのまま2人は笑いながらしばらく話し込み、その様子はなんだか仲の良い姉妹のようにさえ見えた。  


女の子が去ったあとオレは、ナンナンとシィーに聞いてみる。 


「ここの子たちは何歳くらいなの? ずいぶん小さい子に見えるけど」  


ナンナンの表情が、幾分固くなったことにオレは気付いた。 


「10歳から14歳くらいかな。遠くの村から働きに来てるのよ。オーナーが世話してるんだと思うわ」 


「遠くの村から、って、じゃあ学校は?」  


オレは、さっきの子が別のテーブルに注文を取りに行く様子を目で追っていた。 

「行ってないわ。」 


 ナンナンがシャンヌードルを口に運びながらあっさりそう答えるもんだから、オレは次に何も言葉が出せない。マンダレーの「ナイロンホテル」で出会ったスタッフの青年のことが一瞬、脳裏をよぎった。 


「一日中、ここで働いているのよ。休みもないわ」  

あの青年も同じことを言っていた。 



「休みないの?」 


「ええ、働きっぱなし。かわいそうだけど」  


別に、今までだって働いている子どもたちを見てきた。その度にいちいち同情の念に駆られていたわけじゃない。


健気な物売りの子がいたら、微々たる何かを買ってあげた事も多々あった。

買ってあげることで、どんな国に生まれたのか、どんな家庭、そしてどんな親に生まれたのか、そんなどうしようもない宿命の差をほんの僅かでも埋めてあげたかった。  

とても楽じゃない、とんでもねえ人生の道をなんとかをオレは歩いてきたけど、日本に産まれただけましなんだと、東南アジアを旅する旅に感じる場面が多かった。

 


かといって豊かな国、日本から来た「豊かでないオレ」が今できることはなんにもなかった。 


「あの子たちの教育はどうなってるの? 読んだり書いたりは?」  


 「できる子もいれば、出来ない子もいるわ。できる子が教えるのよ」  


今更、騒ぐことでもない。まるでそんなことを語るかのような冷静な表情で2人は、シャンヌードルを食べる。 


 「信じられないな。日本だったらありえないよ。全ての子供が学校に行けるのに」  


彼女たちはエプロンを着けていて、一見すればお手伝いの子だ。けれど、そうじゃない現実を背景に背負っている。本で現状の知識を得るのと、実際にそういった子たちを見るのとでは、現実の重みが違った。   


オレの母方の祖父も、小さい頃は「丁稚奉公」(でっちぼうこう)と言って、どこかの豪農へ働きに出されていたと聞いている。


何年間も帰ってこれず、毎日、早朝から晩まで働かされるのだ。  


戦後まで、そんなものが日本にもあったんだと改めて気付かされる。  


ミャンマーとはいえ、小学生や中学生の年齢の女の子たちが働いている姿は、やはり違和感が否めなかった。

これを普通に感じてはいけないのだ、とオレの何かが反応している。


かといって、どうしようもできない。 農村の貧しい家は、子供を働きにだして、現金を得るしかないんだ。もちろん、与えられる仕事があれば話は別なんだけれど。。。



ノーベル平和賞と獲った、マララ・ユフザイさんのスピーチの有名な言葉があった。




「1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。教育を第一に」






人間が生きていく上で必要な物。



それは、衣・食・住 と言われている。



その次に、必要なもの。




それは、間違いなく「教育」だ。 これは子供に限らず、社会人、大人でもそうだ。



ただ、「教育」は目に見える物ではないため、重要性が理解しづらく、先進国日本でも家庭や職場によっては完全に放置されてしまっている。その結果は多くの場合、ニュースで騒がれるような事件に発展したり、様々な悪い形でその環境下の子供や社員に表れる。そして悪循環が一周して、家庭、職場にさらなる悪影響を与えていってしまう。

「教育がない」とは「特効薬のないウイルス感染」のような状況で、負が負を呼び次々に倒れていく。そして特効薬とはもちろん「教育を入れる」ことだ。


そもそも教育は、なにも頭をよくするためだけじゃない。テストで良い点を取れ、という事だけが教育ではない。仕事内容を教えるだけじゃない。


スキンシップで優しさを教えたり、生き物が亡くなることの寂しさを感じたり、何かを頑張ったという達成感を知ったり。あるいは善悪の判断や、マナー、ルールを守ることが大事だと認識できること。 道徳みたいなものなのかな。

もし、生まれてから一切の教育がなければ、盗み、暴力で欲しいものを手に入れ、気に入らないやつがいれば殴る。それだけで成り立っていってしまう。

おそらく、世界に数多くある貧困区、スラム街と呼ばれる地域は、それに近い実態だと思う。

IS、イスラミックステイツができてしまった背景にも、「教育の希薄」があると言われている。


かつて、日本にもそんなメチャクチャな時代があった。


戦後だ。 


ただ、日本には僅かな教育がまだ残されていた。戦争孤児や浮浪児には、時に売春婦やヤクザが面倒を見て、読み書きを教えた。お寺でもそういった子らを拾い、衣食住を与え、教育も与えた。読み書きができるようになると、次に計算。それができるようになると、商売ができるようになる。

お金を稼げると自立ができる。

もちろんそういった子たちは一部だろうけど、確実に教育が根付いていた。


現Panasonic、松下電器の創設者、松下幸之助さんも社員「教育」に力を入れ、成功に導いた人物だ。

オレは、以前、教育もへったくりもない会社でバイトをしていた。

新しく来た上司が松下電器から来た人で、人材教育に、静かだが熱い情熱を持っている方だった。「人はどうすれば成長するのか」などを企業目線で教わり、オレはその方から「松下式教育」を受け、自信をも持つことができた。



「ウイルス感染」から救われ、言うなれば、オレの世界は変わった。


自分が、「こっちのほうが正しいんじゃないか」という考えを「正しい」と思えるようになった。

その考えが的を射ていなくても、少なくとも、それを認めてくれる大人がいた。

 


「世界を変える」という言葉がオレは好きだ。


地球という世界、日本という世界、そして自分という世界。


変えようと強く願い、情熱を持ち、行動できた人が、一筋縄ではいかないそれらを叶えてきた。


この言葉があれば、常に前に進める気がしている。


今ある考えの領域にこだわらず、引き返しても、切り替えても、考えの世界を広げることができる。



ただ、マララさんのこんな素晴らしい、偉大な言葉の前ではオレなんてただの・・・



いや、男なんてただの、

 

 

 


   

 

 

 



 

うかれポンチでしかないが。

 

 





 


男性をすべて巻き込んで表現いたしましたが、お許しください。



そういえば「ドラえもん」でもジャイアンはよく「店番」といって自分ちの八百屋で働かされてたな。今もそんな場面があるんだろうか。 今の時代じゃ公共の電波で子供に店番させるアニメなんてアウトかもしれないけど。  




ナンナンとシィーの2人には、夕飯をまたしてもご馳走になってしまい、お礼を言ってその日は別れた。会計をする時の店員の女の子とナンナンの、仲良うさそうに話す光景が印象的だった。

働いている子たちはきっと、優しいお姉さんのような存在を欲しているような気がした。



また明日、シィーが仕事が休みということで一日、ヤンゴンを案内してくれることになった。本当にありがたい。  



2人と別れたあと、オレはダウンタウンの繁華街へと足を向けた。  


最後の夜だ、大都市の繁華街も見ておこうと思った。 ホテルに戻ったのはだいぶ遅い時間だった。 



部屋のドアを開けると、カーテンを閉めていなかった窓から、黄金のシュエダゴン・パゴダが見えた。 


静まり返る夜の闇に浮かぶその姿は、まるでオレの「浮かれポンチ」を浄化してくれるようだった。 



次で、ミャンマー旅記、終わります。みなさん、いつも読んでくれてありがとう。



おかやんの「とりあえず何でもひとりでやってみる」ブログ。

やりたい事は悩みながらなんでもやってみる。結果的に楽しんでる!また、何かに特化して書いているわけではありません。 書きたいことをごった混ぜにしてネタをブチ混んで書いていますhttps://www.instagram.com/the_unending_world/?hl=ja

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